武蔵野つれづれ草

リタイア後を楽しく!と始めた凸凹夫婦の面白ブログ。見たこと、感じたこと、残したいことをつづります。

🙋‍♂️♪追分節♪ 発祥の地『追分宿』を歩く


軽井沢に来てから天気☀️に恵まれていたが、さすがに3日目の今日は雨☔️。お散歩は諦めて、ホテルから車で10kmの『追分宿』まで足を伸ばし、宿場町の雰囲気を味わうことにした。

f:id:musashino007:20231112130637j:imageしなの鉄道信濃追分駅」から『追分宿』までは歩いて2km弱。(追分宿郷土館のパンフレットより)

追分宿といってもピンとこないと思うが、江戸時代の五街道東海道中山道甲州道中、日光道中奥州道中)の一つの中山道と、たくさんあった脇街道の一つである北陸街道の分岐宿として栄えた三つの宿場町の一つだ。

浅間山の南麓に、浅間根腰の三宿(軽井沢、沓掛(今の中軽井沢)、追分)と呼ばれた三つの宿があって、特に、追分宿はたいそう繁盛したらしい。

f:id:musashino007:20231112130905j:image中山道と北国街道(こもろ観光局HPより)。「追分」が中山道と北国街道の分岐点であることが分かる。

町営の追分宿駐車場に着いた頃には、いつの間にか雨が止んでいる!(普段の行いが良いせい?😊)
それではまず、追分宿の歴史を探るために『追分宿郷土館』に行ってみよう。

浅間神社・追分公園の右手を歩いてゆくと、追分宿郷土館の手前に「馬頭観世音碑」が建っていた。

f:id:musashino007:20231112132337j:image「馬頭観世音碑」は、元々は1794年(寛政6年)に建立されたようだ。

石碑には、「明治11年に破棄されたが、昭和60年に追分宿郷土館開館に伴い、改修して建立した」と書いてある。破棄して改修?どういう意味?と近づいてよく見たら、"頭"と"観"の文字の間に後で引っ付けたらしき"ヒビ割れ跡"が、写真の赤い矢印の向きで残っていた。100年以上も割れたままだったのが一緒になったのか〜と考えると、感慨深い。

馬頭観世音碑の先には追分宿郷土館」外観がまるで旅籠のような雰囲気である。

f:id:musashino007:20231112150801j:image1985年(昭和60年)に開館した「軽井沢町追分宿郷土館」(長野県北佐久郡軽井沢町追分1155-8)。入館チケットは、「追分宿郷土館」と「堀辰雄文学記念館」のセットになっている。

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建物の中に入ると、館内は落ち着いた木造風の作りになっていて、江戸時代の追分宿を中心に、当時使われていた物や古い資料、宿場・脇本陣・旅籠などのジオラマや模型などが展示されていた。

f:id:musashino007:20231112151738p:image枡形の茶屋「津軽屋」を一部復元(写真撮影NGなので、追分宿郷土館のパンフレットから)

解説によると、徳川綱吉の時代(1684~1688年)には、旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒の大きな宿場に成長。のちの元禄時代には、戸数152軒、人口892人(男354、女534、出家4)にもなったそうだ。ジオラマ、古道具や古文書などを見ていると、当時の江戸時代の人々の生活の様子が見えてくるようで、宿場町の雰囲気を楽しく味わうことできた。

追分節♪ は『追分宿』が発祥地

さて、ここからが今回のメインイベント『追分節』。

f:id:musashino007:20231112153032j:image追分宿郷土館」入口にあった看板

なんと、今年(令和5年)6月27日、軽井沢町の伝統民謡追分節(追分馬子唄・信濃追分)」軽井沢町無形民俗文化財に指定されていたではないか!

と言いながら、実は、私たち夫婦は二人とも長野出身でありながら、「追分節」を良く知らない。江差追分は聞いたことがあるのに。館内には、この軽井沢の伝承民謡「♪追分節♪」がビデオで視聴できるコーナーがあり、疲れたのもあって、二人でソファに座ってずっと聴いていたが、歌詞も節回しも良くわからない。これでは、長野県出身として恥ずかしいではないか!ということで、帰ってから色々調べてみた。

軽井沢町HPの解説には、こう書いてあった。

追分節」は、江戸時代に軽井沢宿・沓掛宿追分宿三宿を往来した馬子たちの仕事唄として誕生し、軽井沢三宿旅籠内で飯盛女らにより三味線や太鼓、踊りが付き、酒宴の席の座敷唄として唄われるようになった。その後、街道や海を渡って各地に伝わり、越後追分」、「本荘追分」、「江差追分」、「松前追分」などが誕生。これらは軽井沢で唄われた追分節が発祥と言われている。

追分宿で唄われた「追分節」が江差追分などの元になっていたなんて、知らなかった〜。
他に、ネットで調べたり、図書館から本追分節」-信濃から江差まで-(竹内勉/三省堂/1980年)を借りて読んでみた。

軽井沢町無形民俗文化財」に指定されたのは、「追分節(追分馬子唄・信濃追分)」。なぜ二つなのかと思ったが、馬鈴・馬の蹄音に合わせて独唱する「追分馬子唄」と、座敷唄調で、三味線伴奏や囃子が付き、より華やかに唄われる信濃追分の二つが残っていたからだ、ということがわかった。(実は、伝承されている系統は複雑。素人の私には難し過ぎたので、ここでは省略)

f:id:musashino007:20231112155555p:image木曽街道追分宿浅間山眺望(渓斎英泉画)(追分宿郷土館パンフレットから)。浅間山の麓を歩きながら、馬子唄を唄っていたのだろうか?

YouTubeに、一部だけではあるが、アップされていた動画があるので聴いてみよう。最初は良くわからなかったが、何度も聴いていると、その味わいがじわじわと伝わって来た。

⚫︎追分馬子唄
追分節保存会 2012年8月。鈴のシャリンシャリンとお椀のパカパカの音が素朴でいい)

○追分桝形の エー茶屋でヨー ホロと鳴いたが アリャ忘らりょか(ハイハイ)
浅間山さん エーなぜ焼け エーしゃんすヨー 裾に三宿 エー持ちながらヨー(ハイハイ)
○小諸出てみりゃ エー浅間の エー山にヨー 今朝も煙が エー三筋立つ(ハイハイ)
碓氷峠の エー権現 エー様は 主のためには エー守り神(ハイハイ)
浅間山では エーわしゃない エーけれど 胸に煙りが エー絶えやせぬ(ハイハイ)
○浅間根越の エー小砂利の エー中で あやめ咲くとは エーしおらしや
○西は追分 エー東は エー関所ヨー 関所越ゆれば エー旅の空(ハイハイ)

⚫︎信濃追分
(東海風流チャンネルvol.37 「信濃追分」編。「信濃追分」は、2:25〜5:34のあたり。三味線が付くと華やかで、ハキタホイホイが病みつきになる)

○(ハキタホイ)西は追分(ハキタホイ)東は関所ヨー(ハキタホイ) せめて(ハキタホイ)峠の(ハキタホイ)茶屋までも(ハキタホイホイ)
△来たよで戸が鳴る 出てみりゃ風だよ オーサドンドン
○(ハキタホイ)離れ離れの(ハキタホイ)あの雲見ればヨー(ハキタホイ) 明日の(ハキタホイ)別れが(ハキタホイ)思われる(ハキタホイホイ)
△来たよで来ぬよで 面影立つよで オーサドンドン

ネットには追分節の情報が少ない、というより、体系だったものがほとんど無い。歌詞もどれが正しいのかわからない状況だ。対して、江差追分などの情報はたくさんある。今年の6月に「軽井沢町無形民俗文化財」に指定されたばかりだから、やむを得ないが、今が伝承していくギリギリのところのようだ。是非、軽井沢及びその周辺の皆さんには頑張って欲しいと思う。


さて、私たち夫婦は、こういうところに来ると、つい時間を忘れて長々と見学してしまう。もう既にお昼近くになってしまったが、まだまだ、行きたいところがある。急いで追分宿郷土館を出た。

f:id:musashino007:20231112162718j:image中山道沿いを流れる「御影用水」

f:id:musashino007:20231112162714j:image橋を渡った先に「浅間神社」がある。

江戸時代の旅人は、「御影用水」で喉を潤し、「浅間神社」にお参りしてから、旅籠に泊まったのだろうか?そして三味線の「信濃追分」を座敷で楽しんだのだろうか?
昨日までとはだいぶ異なる景色だが、こういう道を歩くのもいいものだ。


f:id:musashino007:20231112163209j:image街道沿いに咲くコスモスの花が綺麗だ。

f:id:musashino007:20231112162224j:image街道沿いに立つ道標

ランチはもう少し我慢。
次は「堀辰雄文学記念館」か、それとも昔入ったことがある「信濃追分文化磁場 油や」か?
とりあえず先に進んでみよう。

 

シーズンオフ(9月後半)に出かけた「軽井沢の旅」です。あわせてご覧ください😁

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