武蔵野つれづれ草

リタイア後を楽しく!と始めた凸凹夫婦の面白ブログ。見たこと、感じたこと、残したいことをつづります。

🙋‍♂️小学校1~2年の作文•日記より(松本時代 後編)


幼い頃の落書き、小学校時代の日記、作文、文集、作品などは、親が段ボールに詰めて残しておいてくれたものだ。新婚時代は家が狭くて置く場所がないので、実家に置いてあった。自分の家を持った時に、そろそろ持っていきなさい、と親に言われて実家から持ってきたものの、忙しさにかまけて、押入れに入れたまま、今まで殆どじっくりと見たことが無かった。

f:id:musashino007:20240311070344j:image写真の中の文集プラタナスは、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39年)発行である。その時私は、小学校1年生だった。

その中から、今回は長野県松本市に住んでいた頃の、小学校1年〜2年(1964年〜1965年)の頃の作文や日記帳から6つ選んで、当時の思い出を記してみた。

今回のブログは、先日(3月2日)書いた『🙋‍♂️ふるさとの原風景を求めて 「松本」への旅 - 武蔵野つれづれ草』の後編に当たるものである。

作文そのままの写真だと枚数が多くなりすぎるので、文集の作文だけは写真だが、その他の作文や日記は、MacBookを使って文集のような縦書きの文章にしてみた。小学校1,2年なので、言葉の使い方など結構間違えていて恥ずかしいが、原文のままテキスト化してある。

❶レコードでクラシックを聴く

通っていた鎌田小学校では毎年『プラタナス』という児童文集を発行していた。そこに、「レコード」という私の一年生の時の作文が載っていた。

f:id:musashino007:20240311203431j:imageこれだけが、文集をそのまま写真に撮ったもの。紙がもう茶色になっている。

我が家にあったのは小さなレコードプレイヤーで、レコード盤は1分間45回転のEP盤だったと思う。確か、真ん中に大きな穴が開いていて、アダプターをはめ込んで回す「ドーナツ盤」ではなかったかな。

家族みんなで、畳に置いたこのプレーヤーの周りで額を寄せ合って、買ってきたレコードをじっと見つめながら聴いたことを、よく覚えている。実家にはまだ残っているだろうか。

作文には、モーツァルトの「トルコ行進曲トルコ行進曲/モーツァルト/Turkish March/Mozart/ピアノ-Piano/CANACANA - YouTubeバダジェフスカの「乙女の祈り乙女の祈り−バダジェフスカ【Badarzewska−La prière d'une vierge】ピアノ−piano/CANACANA - YouTubeベートーヴェンの「エリーゼのためにエリーゼのために/ベートーヴェン/Für Elise(For Elise)/Beethoven/ピアノ/Piano/弾いてみた/CANACANA - YouTube の3曲を買ったと書いてあるが、ベートーヴェン交響曲第5番「運命」Seiji Ozawa Beethoven 交響曲 No 5 (運命) - YouTube  を聴きながら、台の上に立ってタクトを振っていた記憶もある。後々買ったのだろうか。

格好つけてタクトを振りながら「ベートーヴェンのような音楽家になりたい」と思ったのはその時だ。家族から「うまい!」とかおだてられ、すぐ真に受けてしまう性格はこの頃からあったということか(笑)

改めてYouTubeで聴いてみたら、「トルコ行進曲」ではこんなに指が動くなんてすごい!と思ったことや、「エリーゼのために」ではいい曲だなあとうっとりと聴いていたこととかを思い出した。何度も何度も繰り返して聴いていたことも。


捨て猫を拾って、また捨てたこと

この思い出は強烈に残っている。兄と拾った子猫を我が家で飼っていたのに、親から言われて捨てたのだ。

f:id:musashino007:20240311071210j:imagef:id:musashino007:20240311155113j:image下はもうボロボロになっていた原本の日記。残っていて良かった。当時の気持ちを思い出すことができたから。

子猫は本当に可愛かった。炬燵の中で子猫がぐたーとなってしまい、かなり心配したこともある。

なぜ、折角飼い始めた可愛い子猫を捨てにいかなければならなかったのか?その理由は全く覚えていない。捨てておいで、と言った母親も泣いていたので、何らかの事情があったのだろうが・・・・。

兄が捨てに行ったら夜には家に戻ってきて、ニャーゴニャーゴ泣いていた子猫は本当に可哀想だし、それをまた遠くに捨てに行った兄の気持ちもよくわかるし、再び捨てに行った後に帰ってこなかった時の悲しさは、今でも思い出す。兄も私も、夢に何度も出てきた記憶がある。


❸六月の日記から

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6月3日(木)「野球をした」
野球は男の子の大好きな遊びだった。野球帽には読売ジャイアンツのマーク(Y&G)が付いている。長野県では当時、巨人戦しか流れなかったせいかわからないが、私は巨人の選手しか知らなかった。

父・兄や私が被っているキャッチャーマスクは、兄が「針金」と「包帯or古布」で作ってくれたものだ。

f:id:musashino007:20240311204511j:image借家の大家が農家で、広い庭があり、そこでよく遊んだ。私がバッター、父がキャッチャー


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(左)兄がキャッチャー (右)私がピッチャー


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(左)私がキャッチー (右)兄がピッチャー。奥に井戸が見える。

兄とのキャッチボールは、長野市に戻ってからも続いた。「やるか?」「やる!」で、道端で二人で交代しながら投げあった。特に、『巨人の星』を見終わった後は、私は星飛雄馬になっていた。

6月5日(土)「町に行った」
この日の日記の内容は、さっぱり意味がわからないけど、笑える。「うんとやさしい人がいた」とか「まちの人たちは、まえよりやさしくなりました」って、どういうことだろう?昔冷たくされたの?そもそも「まち」ってどこだい?

6月6日(日)「飛行機を見に行った」
この日のことはよく覚えている。南松本にあった「陸上自衛隊松本駐屯地」で毎年行われていた、市民向けのフェスティバルを父と兄の3人で見学に行ったのだ。

この頃の雑記帳には、戦闘機や戦車を描いたものがたくさんあるので、それを見て父親が連れて行ってくれたのかもしれない。でも、戦争が大っ嫌いな父が、自衛隊の駐屯地に子供を連れて行ったのも、考えてみれば不思議だ。

父は戦争末期に、士官不足を補うための群馬の学校(陸軍士官予備学校?)に行って、卒業前に終戦を迎えたようだ。グラウンドで玉音放送を聞いたと言っていた。モールス信号も覚えたらしい。もう少し終戦が遅かったら私はいなかったかもしれない。潜水艦で戦死した仲間もいるのに、自分は生き残ったことが申し訳なかったようで、「戦争は二度としてはいけないんだ」と、何度も何度も話していた。

ただこの頃の私は全然そんなことも分からずに、カッコ良さだけで戦闘機や戦車や戦艦の絵を描くのが好きだった。パイロットに憧れていた時期もある。戦争への嫌悪感が芽生えたのは、もう少し大きくなってからのことである。

f:id:musashino007:20240311102422j:image翼に乗っている野球帽を被った男の子を私だと思って、父は写真を撮ったらしい。でも、私ではない。兄と翼の上に乗ったとは思うのだが、不思議と記憶がないのは何故だろう。


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(左)忠臣蔵の格好をした隊員のパレードの前で
(右) 陸上自衛隊松本駐屯地の門の前で

f:id:musashino007:20240311204734j:imageぶどう狩りをしてから帰った。日記に書いてあるように、二人とも、だいぶお疲れのようだ。

 

❹美ヶ原高原と浅間温泉への旅行

次は、2年生の8月に、美ヶ原高原と浅間温泉に家族で旅行に行った時の日記だ。Googleマップで調べると、松本駅から美ヶ原高原まで30数kmの山道だ。当時、古い型式のバスに延々と揺られてたどり着いた気がする。

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写真を見ると、かなり高地なのに、私たち家族だけが軽装である。晴天だし、気持ちの良い高原の空気を吸って気持ち良かったんだと思うが、あまり記憶がないのが残念だ。

この家族旅行から19年後の1984年の6月、結婚前の私と妻が、美ヶ原高原でデートすることになろうとは、もちろん夢にも思っていない。

f:id:musashino007:20240311204754j:image左方向が、王ヶ鼻(2,008m)・王ヶ頭(2,034m)・美しの塔のようだ。右から、兄、私、母、姉。


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(左)左から、母、姉、私、兄 (右)遠くに家族が見える。私はトンボを追いかけていたのだろうか。

 美ヶ原高原から松本盆地の山の裾野までほとんど降りたところに浅間温泉♨️がある。松本駅からは、6kmほどの距離だ。温泉で兄と一緒に作った ”7回の「さいこう」”とは一体何のことだろう?ひょっとして、お風呂に入った回数のことかな?

浅間温泉は、1000年以上の歴史を持ち、いまだにしっとりとした温泉情緒を醸し出しているところのようだ。私はこの時以来再訪したことはない。いつか、この歴史を刻んだ温泉を再び訪ねて、夫婦で「さいこう」を作りたいものだ。

 

❺詩(赤とんぼ、雲)

とても「詩」とは言えないものだが、当時の景色は目に浮かぶ。あの頃は秋になると、どこからともなく赤とんぼが飛んできたが、東京では見たことがない。でも、空と雲の絶え間ない変化を眺めるのは、今でも好きだ。

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子供の頃と違って、素敵な雲や、朝焼け・夕焼けの空を見ると、目に焼き付ける前に、すぐに写真を撮ってしまうようになってしまった。いいんだか悪いんだか。。


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(左)軽井沢の雲場池のほとりで(2008年9月)
(右)綿菓子の親子(2024年3月)

 

❻家族で『百人一首

次が、2年生の年明けの1月に、初めて百人一首をやった時の日記だ。炬燵の上で、百人一首を並べて家族で遊んだことを覚えている。

f:id:musashino007:20240314103728j:image担任の女の先生が、どの日記にも何かしらコメントを書いてくれたり、花丸をつけてくれて、とても嬉しかった。

末っ子で、まだ小さい私が先に取れるわけがない。取れなくてシクシク泣いている私の横で、「可哀想だから、取らせてあげよう」と、家族が目配せしている光景が想像できる。

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この百人一首の日記を書いてから、何ヶ月かした昭和41年(1966年)の春、父親の転勤に伴い、松本から長野に引っ越しして、小学校3年生に転入することになる。

1964年の東京オリンピックについて書かれた日記が無いのがとても不思議だ。見るのに夢中だったか。
鮮明な音の記憶として、開会式のファンファーレ、オリンピック賛歌、オリンピック・マーチが残っている。整然とした日本代表団の行進、日本選手の活躍(女子バレーボール優勝や男子マラソンの円谷選手の銅メダルなど)は、はっきりと覚えている。これも松本時代の素晴らしい思い出だ。

 

今回取り上げた6つ以外、たくさんの日記がある。キリがないので簡単な内容だけ書いておこう。

⚫︎家族全員でへ行ったこと⚫︎兄と兄の友だちと野球・相撲・影踏み遊びをして遊んだこと⚫︎授業で作ったをプールで浮かばせて競争したこと⚫︎布団を干したあと寝転んだらふわふわして雲のようだったこと⚫︎鉄棒遊びで遠くまで飛んだこと⚫︎父にピンポンを買ってきてもらって勉強机を使って家族でピンポンで遊んだこと⚫︎夏休みに兄を起こしてラジオ体操に行ったこと⚫︎道路でスキーをしたけど何度も滑って転んで上手く滑れなくて濡れてしまったこと⚫︎映画館で映画(オタマジャクシは蛙の子他)を見てたら眠くなってしまったことと、その後で本屋で十五少年漂流記や漫画雑誌を買ってもらったこと⚫︎1月1日の登校日のこと⚫︎兄と友だちとままごと遊びをしてお兄ちゃん役をやったこと⚫︎姉兄弟でラソン競争して負けたこと⚫︎兄と行った夏休みのプールで10m泳ごうとしたけど泳げなかったこと⚫︎社会科見学(駅、郵便局、消防署、警察署)で色々お話を聞いたこと⚫︎母からお使いを頼まれてかつお節を買いに自転車で行ったこと⚫︎長野市親戚に汽車とバスで行って楽しかったこと⚫︎兄が学校から持ち帰った地球儀に地図を貼るのを手伝ったけど、最後上手く合わなかったこと⚫︎ついてもらったお餅を兄と一緒に切ったこと⚫︎2年生の思い出について、などなど。

どれもこれも、私にとっては宝物のような日記だが、このブログを書いていて考えた事がある。頭の中の思い出って本当の記憶なんだろうか?まさか、後で親から聞いた話を記憶として焼き付けたものなのか?はたまた、自分で勝手に想像したものなのか?

今となってはもうわからない。でも、そうだからこそ、思い出って素晴らしいのかもしれない。楽しい事も悲しい事も嬉しい事も嫌な事も、全部ひっくるめて、ほんわかした捨てがたい大切な財産となって残っている(残している?)。人間て、すごいなと思う。

 

私の3年間の松本時代の思い出は、これでおしまいです。最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

昭和時代の懐かしい思い出の記事です。よろしかったらご覧ください。

⚫︎4歳〜5歳の頃(昭和37年)musashino007.hatenablog.com

⚫︎松本(前編) 保育園〜小学校2年(昭和38〜40年)musashino007.hatenablog.com

⚫︎小学校3年〜4年の頃(昭和41〜42年)musashino007.hatenablog.com