武蔵野つれづれ草

リタイア後を楽しく!と始めた凸凹夫婦の面白ブログ。見たこと、感じたこと、残したいことをつづります。

🙋‍♂️「ケネディからの伝言」

第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが暗殺されてから、ちょうど60年経った。私のケネディの一番古い記憶も60年前、すなわち、彼が暗殺された1963年(昭和38年)11月22日の翌日の朝のことだ。私は6歳5ヶ月だった。

f:id:musashino007:20231217145332j:imageケネディからの伝言(落合信彦)」より

この日、世界の放送史上画期的な実験として、日米間の宇宙中継が初めて行われた。そして、史上初めて太平洋を越えて電波に乗って送られてきたニュースが、何とケネディ大統領暗殺の悲報だった。私はまだ幼かったが、家族でテレビを見ながら、大統領が暗殺されたことに、何だかわからないけれど、ひどいショックを受けた記憶がある。

先日、テレビのコメンテーターが「ケネディ大統領が今生きていたら、世界はどう変わるだろうか?」と話していて、久しぶりに、自宅の書棚にあるケネディからの伝言(落合信彦)」を開きたくなった。

f:id:musashino007:20231215212033j:imageケネディからの伝言」(落合信彦集英社文庫、1996年2月)

読んでみて、改めて、ケネディ大統領の、「アメリカと世界を変えたい、真の平和を実現したい」という強固な意志と、正義を貫こうとする強い信念、政治哲学に深く感銘した。ケネディのスピーチには特に難しい言葉は無いのに、大いに心を揺さぶり、自分たちも変わらねば!と、心のスイッチが押されるのだ。心底、ケネディ大統領のような政治家こそ、今の時代に必要な政治家だと痛感した。と同時に、現実的には、このような政治家は今の世界に(ましてや日本には)一人も存在しないし、これからも出てきそうもないことに、深く失望もした。

しかし、諦めては終わりだ。政治に絶望している今こそ、かつてこのような政治家が存在したことを、どういう哲学・信念を持ちどう行動したかを、そして何故暗殺されねばならなかったのか、について、私たちみんなが深く知り、考え、後世に伝えていかねばならない。

ケネディは暗殺されるまでに、何万というスピーチで、アメリカ国民だけでなく全世界の人々に語りかけた。本で取り上げられたスピーチは、いずれも、彼の人生哲学、政治理念、夢が滲み出ている。中でも、私が感動したのは、以下の4つのスピーチである。

本の中でもスピーチの核となる部分だけを取り上げて解説してあるが、それでも長いので、更に私の方で要約した。なお、和訳文は「ケネディからの伝言」から一部を引用&要約し、動画はYouTubeから引用した。少し長くなるが、読んでいただけると嬉しい。

マサチューセッツ州議会でのスピーチより(1961年1月9日)


(英語。字幕なし。下記の4つの要素について話すのは、動画の中程から)

当選してワシントンに移る前に、故郷マサチューセッツ州の州議会で別れの挨拶を行った。そこで、来るべきケネディ内閣の原則とその行動の基準を発表している。

「…多くを与えられている者には多くが要求される。そしていつの日か、歴史という高貴な裁きの場で、われわれが国家に対するつかの間の奉仕においてどれだけの責任を果たしたかが問われることになろう。その時、四つの疑問に対しわれわれがどう答えるかで審判が下されるだろう。

第一に、われわれには真の勇気があったか。その勇気とは単に敵に対するものでなく、必要とあらば仲間に対しても立ち向かうことのできる勇気であり、公のプレッシャーだけではなく、私的な欲望にも立ち向かえる勇気である。

第二に、われわれには真の判断力があったか。未来と過去を真正面から見つめ、自らの過ちを認め、自分たちの知識の限界を知り、それを認める英知があったか。

第三に、われわれには真の尊厳があったか。自らの信念を貫き通し、人々の信頼を裏切らなかったか。政治的野望や金銭的欲望のために神聖なる任務を汚さなかったか。

最後に、われわれは真に国家に献身したか。名誉を特定の人間やグループに妥協せず、個人的恩義や目的のために道を曲げず、ただひたすら公共のため、国家のために身を捧げたか。

勇気、判断力、尊厳、そして献身。これら四つの要素が私の政権の活動の基準となるであろう。…」

ケネディ内閣は、三年間の在任中、一度として汚職やスキャンダルが無かった。これは、内閣の10のポストを、人一倍の才能と人間的潔癖性を持った人間だけに絞り、誰にも借りを作らず何の約束にも縛られずに任命したからだ。"才能の内閣" と呼ばれた所以だ。

派閥力学と貸し借りの中で行われる日本の自民党の政治には、このような任命方法は望むべくもない。スピーチの四つの要素も、日本の政治家には全く当てはまらないのがまことに残念だ。

❷第35代大統領就任スピーチより
(1961年1月20日


(英語・日本語の字幕付き)

ワシントンDCにて行われた就任演説。その格調の高さにおいて最大級の歴史的評価を受けた。15分ほどの短い演説だが、その中にケネディの政治哲学や歴史観、理想と夢、そして現実的かつ具体的政策など全てが含まれている。ケネディ自身が30回も書き直したと言われるだけあって、各フレーズが練りに練られ、無駄な言葉は一切ない。ここでは、有名なフレーズ(下線部分)を含む締めの部分だけ紹介する。

「・・・建国以来、アメリカ国民は各世代ごとに祖国に対する忠誠をその行動で示すことを要請されてきた。その要請に応えた若きアメリカ人たちの墓標は、世界をとり巻いている。

今またトランペットがわれわれを呼んでいる。武器は必要としてもそれは武器をとれとの呼びかけではなく、抗争の真っ只中にあろうとも戦闘への呼びかけでもない。それは行く年、来る年、"望みの中に喜び、艱難の中に耐える"  長い夜明け前の戦い ー 独裁、病、貧困、そして戦争など全人類共通の敵に対する戦いのための重荷を背負えとの呼びかけである。

これらの敵に対して北も南も東も西も含めた世界的な同盟を結ぼうではないか。

全人類にとって、より実り多い生活を保障するための一大同盟の結成である。この歴史的努力に参加していただけるだろうか?
(ここで観衆からものすごい歓声がわき上がる)

長い世界の歴史の中で、自由というものが最大の危険にさらされている時、それを守る役割をさずけられた世代はごく少なかった。…(中略)…
この一大事業にそそぐわれわれのエネルギー、信念、献身こそが祖国とそれに仕えるすべての者たちに灯をともし、その火から発する輝きが真に世界を照らすことになるのである。

故にわが同胞アメリカ国民よ、国家があなた方のために何をするかではなく、あなた方が国家のために何ができるかを問うてもらいたい。

わが世界の同胞よ、アメリカがあなた方に何をするかではなく、共に人間の自由のために何ができるかを問うてもらいたい。

最後に、あなた方がアメリカ市民であろうと世界の市民であろうと、われわれがあなた方に求めると同じ高い水準の強さと犠牲を、われわれにも求めてもらいたい。

安らかな良心を唯一の確かな報酬とし、歴史をわれわれの行動の究極の審判となし、神の恵みと助けを求めながらも、この地上では神のみわざはわれわれ自身の所業でなければならないことを心に刻みつつ、愛する祖国を導き前進して行こうではないか

著者の落合信彦氏は、この時アメリカの大学生であった。聴衆の反応はすさまじく、拍手と歓声がいつまでも鳴りやまない。冷戦の真っ只中にありながら和解を説き、繁栄の真っ只中にありながら犠牲を求める。ケネディのスピーチが彼らの心の奥底にあったスイッチを押し、その瞬間アメリカの空気が変わったということを、肌で感じたそうだ。ひとつのスピーチが国家と国民を変えてしまったのだ。

アメリカン大学卒業式スピーチ「平和のための戦略」より
(1963年6月10日)


(英語・日本語の字幕付き)

このスピーチこそ、ケネディの世界平和に対する情熱と信念そして哲学が織り込まれ、当時の米ソ関係を大きく変えることになった。フルシチョフ書記長の心を動かしたのだ。

要約するとスピーチの感動は失われてしまうが、そのままだとかなり長くなるので、内容を大幅に圧縮した。

「軍事費の中でも、無駄に蓄積され、破壊するだけで何ものも創造しない「核兵器」は、平和を保障する手段にはなり得ない。

ソ連を批判するだけでなく、平和は不可能かつ非現実的と考えている米国民自身の思考・態度を変え、互いに忍耐と寛容の心をもって一緒に生きよう。

その上で、絶対的かつ無限の観念を含んだ平和ではなく、より現実的で手の届く範囲の平和に焦点をしぼろう。具体的には、
①総合的な核実験禁止条約についてのハイ・レベル会議を近々モスクワで開くことと、
②米国の誠意と信念の証として、米国は他の国が行わない限り、大気圏内での核実験をしないことを宣言する。

われわれの問題はわれわれ人間が作り出したものだから、人間の運命に関して人間が解けない問題は、ひとつとしてあり得ない。恐れず自言をもって破滅への戦略ではなく、平和のための戦略へと進んでいこうではないか

このスピーチに対するソ連側の反応は驚くべきもので、スピーチがカット無しでソ連の新聞に載ったという。約1ヶ月後の1963年7月25日、部分的核実験禁止条約が、米ソ英の三国の間で結ばれた。

ケネディは、「絶対的かつ無限の観念を含んだ平和ではなく、まずは、より現実的で手の届く範囲の平和に焦点をしぼろうではないか。」と述べている。もし、今の時代にケネディが生きていたとしたら、ロシアのウクライナ侵略やイスラエルのガザ侵攻に対して、"現実的な平和へのプロセス" をどのように進めていくのだろうか?

ホワイトハウス執務室から
全米に向けたスピーチ
(1963年6月11日)


(英語。字幕なし。13:50まで)

最後は、公民権問題に関するスピーチである。当時、黒人が大学に入学することはほぼ不可能であった。特に人種差別の激しい南部では。
全米50州の中で最後まで入学を認めていなかったアラバマ州でも、州知事が先頭に立った激しい抵抗があったが、ケネディ大統領の断固とした行動で州立大学に入学がかなった。その日の夕方に、ホワイトハウスの執務室から全米に向けたスピーチが行われた。短いながら、その内容は第二の"奴隷解放宣言" と言われたほどだ。しかし、黒人には感動的だったが、白人至上主義者にとっては過激で絶対許せない内容だった。黒人がレストランにも入れないような時代だ。ケネディ大統領の強い信念を持った言葉の一つ一つが胸に響く。

この演説もそのままだと長いので、要約する。

「さまざまな脅迫や挑戦的な声明文などが出されたにもかかわらず、二人の黒人学生がアラバマ州立大学に無事入学した。しかし、裁判所の最終的かつ明確な命令があるにも関わらず、アラバマ州兵の出動を必要としたことについて、すべてのアメリカ人は、立ち止まって、この出来事について自らの良心に問うてもらいたい。すべてのアメリカ人は、人種や肌の色に関係なく、アメリカ人としての特権を享受することが可能であるべきなのだ。しかし、現実は全く違う。

今日のアメリカに生まれる黒人の子供は、どの地域で生まれようが、白人の子供に比べて、高校卒業のチャンスは半分しかない。大学卒業のチャンスは白人に比べて三分の一、専門職につけるチャンスは三分の一、失業のチャンスは二倍、年間一万ドルを稼げる確率は七分の一、平均寿命は七年も短く、平均収入は二分の一にすぎない。

これは一地域の問題ではない。偏見と差別をめぐる問題は合衆国全部の州や町に存在し、不満を増長し、公共の安全を脅かしている。

またこれは党派の問題でもない。国内的危機にある今、善意と寛仁の心を持った人々は、党や政治に関係なく行動を共にすべきである。

これは法的または立法的な問題だけでもない。われわれ本的に道徳的問題に直面している。問題の核心はあらゆるアメリカ人が平等の権利と平等の機会を与えられ、同胞のアメリカ市民をわれわれが扱って欲しいと同じように扱えるかということだ。

リンカーン大統領が奴隷解放を行ってからすでに100年がすぎた。しかし、彼らの子孫、彼らの孫たちはまだ完全に自由ではない。彼らは未だ不正義の鎖から自由になってはいない。彼らは未だ社会的、経済的抑圧から自由になってはいない。

そしてこの国は何を主張し、どんな立派な行動をとろうと全部の国民が自由にならない限り決して自由な国家にはならない。故にわれわれは国家としてまた国民として道徳的危機に直面している。何もしない人間は恥だけではなく暴力をも招いているに等しい。大胆に活動する人間は正義と現実を認めているのである。」

ここでケネディは次の週に彼が大統領として議会に提出することを考えている公民権法案」について説明する。その法案は教育、公共施設の使用、雇用、投票権、黒人の安全など多くの分野を網羅したもので前例のないほど包括的なものであった。

「しかし、繰り返すが法律だけではこの問題は解決され得ない。あらゆる地域で、あらゆるアメリカ人の家で解決されねばならぬ問題なのだ。

わが同胞アメリカ国民よ、この問題は、北部と南部とにかかわらずあらゆるアメリカ市民が直面している問題なのだ。

この国がひとつの国になったのは、ここに来たすべての人間がその才能をのばす平等な機会が与えられたからではなかったか。彼らに対しても、われわれ自身に対しても、もっと良い国を作る責任があると私は信ずる。

これはわが国およびわが国が依って立つ信条にもかかわることである。この問題の対処にあたりあなた方国民ひとりひとりの支持をお願いしたい」

人種差別を法律的かつロジックの問題ととらえていたケネディだったが、このスピーチではもう一歩突っ込んで、最終的には "モラル・クライシス(道徳的危機)" と決めつけたのである。かつてどの大統領もこれほど強烈な言葉で人種差別の悪を定義づけた者はいなかった。

スピーチが国民の間に巻き起こした反応(反発)はすさまじかった。南部出身の議員は民主党共和党も一斉に法案反対の姿勢を示した。東部や北部の進歩的白人たちさえ、大統領の法案は時期尚早と考えた。スピーチ直後、バーミンガムを始めとする南部の市や町では、白人による暴力事件が続発し、十人近い黒人が殺されたそうだ。

しかし、ケネディ大統領は諦めなかった。大統領自身の各方面への説得、弟のロバート・ケネディ司法長官の上院・下院委員会への懸命な説得により、法案を提出後約5ヶ月経って、やっと下院規則委員会にまわされた。ここを通過すれば下院本会議へ自動的にまわされ、本会議まで持ち込めば可決の可能性は高い、というところまで来た。

しかし、ケネディはこの結果を知ることはなかった・・・・。法案が下院規則委員会にまわされた翌日、彼はダラスで暗殺された。アメリカは、世界は、かけがえのない政治家を失ったのだ。

ケネディ大統領は何故暗殺されたのか?

ケネディ大統領は、弟のロバート・ケネディ司法長官と共に、組織犯罪の撲滅に力を入れていて、マフィアから大反発を受けていた。更に、暗殺された日は、公民権法案が通る見込みが出てきた時であり、超保守派からは殺人予告が出る険悪な状態だった。また、暗殺された頃は、"ベトナムからのアメリカの軍事顧問団引き上げ" を発表した3週間後のことだ。このベトナムからの引き上げは、ソ連との融和を忌み嫌い、ベトナム戦争によって利益を得る軍産複合体軍需産業、CIA、FBI)及びマフィアにとって、とても許せることではなかった。彼らは、ケネディ大統領にいなくなって欲しいと願っていた人たちである。この事実は何を意味するのだろうか?

ケネディ大統領の意思を継ぐはずだった弟のロバート・ケネディも、その5年後、大統領選のさなか(カリフォルニア州の予備選で勝った日に)暗殺された。二人を消し去ったアメリカの闇は深い。何故二人は暗殺されねばならなかったのか?

f:id:musashino007:20240106072722j:image「20世紀最大の謀略 ケネディ暗殺の真実(落合信彦小学館文庫、2013年11月)」

落合信彦氏が長年にわたる関係者への取材と資料分析から明らかにした、ケネディ暗殺の真実に関する本「20世紀最大の謀略 ケネディ暗殺の真実」には驚くべき内容が書かれていた。ジョン・F・ケネディ暗殺事件後4年以内に、その重要証人が21人、次々と死んでいった、という事実だけで、まず絶句である。

軍産複合体軍需産業、CIA、FBI、陸軍情報部)及びマフィア、そして、なんと次期大統領を目指すニクソンも登場するこの謀略は、天地がひっくり返るほどだ。ウォーターゲート事件もこの謀略に関連して起きているのである。

今年は米国の大統領選挙も控えている。その前に、この本を読んでみることをお勧めする。だいぶアメリカ社会に対するイメージが変わると思うし、トランプのまさかの当選もあり得る理由も想像できるかもしれない。

日本はどうか?

残念ながら、日本の政治家には「ビジョン」が無い。自民党の実態は、派閥力学の中だけで動き、選挙で勝つこと、要職につくこと、しか考えていないように見える。全く国民の方を向いていない。行き場の無いこの気持ち、一体どうしたらいいのだろう?

まずは、諦めずに、政治に無関心にならずに、大いに声を上げること、そして選挙で一票を投じることだろう。少なくとも、聞く耳を持たず、好き勝手のできる「1強」体制のままだと、日本は滅んでしまいそうだ。「とは言っても、今の野党はなぁ」というため息が聞こえるが…。

「本当の民主主義」とは、多数派が数で押し切ることをせずに、少数派の意見を最後まで尊重して議論を尽くすことではないかと思う。それに、悪いことをした人は罰を受ける、そんな当たり前の政治・社会。それが日本で実現することを切に望みたい。

テレビで、あるコメンテーターが話していた。
「腐った料理と不味い料理のどちらを選びますか?腐った料理を食べて死ぬか、不味い料理を我慢しながらその料理人を育てていくか、日本は今その瀬戸際にいるのではないでしょうか?」
なるほど、上手いことを言う。与党と野党のことである。

 


大変×大変…長くなってしまいました。。。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。