私が4歳から5歳になった年、昭和37年(1962年)の絵日記がある。私の稚拙な絵に、父親や母親が何を描いたのか説明したメモも記されている。親が段ボールに詰めて残しておいてくれた中にあった。
ちなみに、この昭和37年は、東京都人口が1,000万人を突破。大相撲では大鵬が優勝し、ライバル柏戸との柏鵬(はくほう)時代が到来。この後の大鵬の6連勝で、当時の子供たちの大好きな「巨人・大鵬・卵焼き」が生まれた、そんな頃。東京オリンピックまではあと2年だ。
世界に目を向けると、一番は「キューバ危機」だろう。米ケネディ大統領のソ連フルシチョフ第一書記に対する、戦略的かつ熱意のある働きかけによって、間一髪で核戦争が回避できた。米女優マリリン・モンローが亡くなった年でもある。また、前年の昭和36年は、米国でケネディ大統領が就任、ソ連のガガーリンが人類初の有人宇宙飛行に成功した年。そんな時代の絵日記である。
(上左)大鵬(豆まき)
(上右)ケネディ大統領(右)とフルシチョフ第一書記(左)
(1961年ウィーン会談)
(下左)マリリン・モンロー
(Getty Images/Douglas Miller)
(下右)ユーリ・ガガーリンとボストーク1号(Rekisiru)
改めてじっくり、私の稚拙な絵と親が書いたメモを眺めていると、記憶からずっと消えていた思い出が、ぼんやりと浮かび上がってくる。毎日描いているわけではないが、その中で、当時の昭和の生活が感じられる10枚をピックアップしてみた。
3月18日(日曜)(4歳)
「R学校の庭でやきゆうをしているところ。父」
日記に初めて出てくる私の絵だ。長野市の実家の近くにR学校があり、広い校庭でよく遊んだものだ。姉、兄、自分の3人が片眼なのが可笑しい。しいちゃんて誰だっけ?向かいのうちのお兄さんかな?
それにしても、あの父親が息子の描いた絵にメモを残しているとはびっくりだ。
(注)名前が書いてある箇所は、僕、姉、兄のように書き換えました。
4月1日(日曜)(4歳)
「おとうさんとやきゅうをしました。●●(ぼく)がグラブをもって、じょうずにとりました。そこへべんきょうをしたにいさんがきて三人でやきゅうをしました。父」
片眼から両眼にレベルアップ?(笑)
長野では、野球と言えば「読売ジャイアンツ」で、男の子の野球帽には、大抵「G」マークが付いていた。もちろん私も。
この年に、巨人の王貞治が一本足打法で本塁打王と打点王を獲得している。王貞治のホームラン量産もあり、読売ジャイアンツは、1965年(昭和40年)から1973年(昭和48年)まで、9年間連続してプロ野球日本シリーズを制覇(V9)した。「巨人・大鵬・卵焼き」の時代である。
(左)王貞治(1962年7月1日、一本足打法を初披露)
(右)長嶋茂雄(1969年10月29日、日本シリーズ巨人・阪急第3戦でのホームラン。毎日新聞)
4月12日(木曜)(4歳)
「お母さんがおせんたくをして居るところです」
丸いのは「盥(たらい)」で、もみ洗いをしていて、水が溢れている様子を描いたのだろう。まだ洗濯機がなくて、「洗濯板」を使ったりもみ洗いをしていた頃だ。もう少し大きくなってから、私も手伝ったことがある。
盥(たらい)と洗濯板(金沢くらしの博物館)
4月14日(土曜)(4歳)
「おねえさん、おかあさん、おにいちゃんととこやにいったところのえです。●●(ぼく)がいまとこやのおじさんにりはつしてもらっているところです。父」
床屋で座っている記憶はぼんやりある。家族そろって床屋に行っていたことは、あまりよく覚えていないが、お店の中で漫画か何かを見ながら待つのは嬉しかった気がする。
4月25日(水曜)(4歳)
「おとうさんに自転車へのせてもらって吉田へいったところです。かえりにどりこのやきをかってもらいました。お兄さんお姉さんにもかってきてあげました。父」
よく父親には自転車の後ろに乗せてもらった。この時は「どりこのやき」をお土産に買って帰ったようだ。「どりこの焼き」って昔はよく聞いたが、大判焼きや今川焼きと何が違うんだろう。長野だけの呼び方なのかもしれない。
元祖「どりこの焼」(長野県長野市鶴賀問御所町1300)は、既に閉店!
6月1日(金曜)(5歳)
「●●(ぼく)のお誕生日です。記念のアルバムをかってもらいました。満5才になりました。大へんおりこうです。」
実は、手元の私のアルバムには、この頃までの写真がほとんど無い。どんな顔をして誕生日を迎えたのかな。父親は写真が趣味で、自分で現像・焼き付けもしていたようなので、無いはずがない。多分、親の方のアルバムに貼ってあるのだろう。機会があれば、実家で見てみたいものだ。
7月26日(木曜)(5歳)
「日本海の谷浜へ海水浴にいったところのえです。家中が海の中でおよぎました。まっくろになっておよぎ、せなかがいたくて帰っても困りました。」
長野市民が海水浴場に行くとすれば、一番近いのは上越市の谷浜海水浴場で、あとは、柏崎市の鯨波海水浴場だった。
幼い頃、海水浴場で迷子になった記憶があるが、この時だったのだろうか。海の家で休んでいる母のところに行こうと思って歩き始めたが、同じような家ばっかりで、迷って泣いていたところを救護され、場内アナウンス。これを聞いた父親が駆けつけてくれたのだ。怒られた記憶はない。後々聞いたところによると、私の姿が見えなくなって、父は青くなって懸命に探したそうだ。放送を聞いて、さぞかしホッとしただろう。
新潟県上越市の谷浜海水浴場(ニッポン旅マガジンより)。確かにこんな感じの海水浴場だった!
11月25日(日曜)(5歳)
「群馬の⚫︎⚫︎おじちゃんと、ハイヤーで須坂の鉄橋までドライブに行ったところ。母」
「あしたぐんまのおじさんがかえる」
群馬には私の母の実家があり、叔母(母の妹)夫婦が従姉妹を連れてよく長野に遊びに来ていた。この時だったか定かではないが、善光寺にお参りに行って、車を降りた時に、車の扉に私の指が挟まってしまい、大泣きした記憶がある。今思い出しても、痛かったな〜。多分その頃の写真だと思うが、叔母さんや祖父(母の父)と一緒に、善光寺にお参りに行った時の写真があった。よく覚えてはいないが、懐かしい。
それにしても、ハイヤーのタイヤの本数、多すぎる(笑)。
(後列)祖父、母、叔母。(前列)姉、従姉妹、兄、私。
12月27日(木曜)(5歳)
「三才の母の家へいき母の部屋をそうじしてきました。(●●(ぼく)、●●(兄)、●●(姉)と一緒にいって大そうじ)バスでいくところ。」
おばあちゃんとは、父の実家の敷地の離れに住んでいた祖母(父の母)のことである。
私の字で「おばあちゃんのうち”え”いきました。」と書いてあるが、こんな騒ぎがあったようだ。
「おばあちゃんのうち”へ”を”え”にかくんだといってききませんでした。”へ”が正しいんだと●●(兄)と●●(姉)と父がいったけれど、まよってしまうからどうしても”え”にかくんだといってないてしまったので、”え”と父がかきました。」
小さい頃、泣き虫なのに負けず嫌いで、意地っ張りというか頑固だったと母親からよく聞いた。そんな自分を思い出して笑ってしまう。
12月31日(月曜)(5歳)
「おおみそかにごちそうをたべているところ」
この頃はまだ我が家にはテレビが無かったので、どのように大晦日の夜を過ごしたのだろうか。
5人で炬燵を囲むので、どうしても末っ子の私は兄と一緒に2人で炬燵に入ることになるが、若干窮屈だ。そういう時に父親から「おいで」と言われて、父のあぐらの中に入って食事をした食卓の風景を思い出す。
ちなみに、この年のレコード大賞は、「いつでも夢を(橋幸夫・吉永小百合)」である。紅白歌合戦はラジオで聴いていたのかな。私は炬燵に入ったまま寝てしまい、布団に運ばれながら、空を飛んでいる夢を見ていたかもしれない。小さい頃は、両手をバタバタさせれば、空を自由に飛べた。夢の中だけだったけれど。
歌詞の中の「言っているいる お持ちなさいな いつでも夢を いつでも夢を」は、まさに当時の国民の思いを表したものだったのではないだろうか。だから大ヒットしたのかもしれない。
三種の神器のテレビも洗濯機も冷蔵庫も、我が家にはまだ無い。遊びと言ったら、近くの校庭や舗装されていない道で、野球、砂遊び、相撲、追いかけっこ、チャンバラごっこ。時にはままごと遊びもした。小川にはメダカが泳ぎ、庭には蝶々が舞い、赤とんぼがたくさん飛んでいた。
今考えると、あの頃は時間がゆったり流れて、なんか輝いていたように感じる。戦争が終わって12年経ち、平和で、高度経済成長も始まり、貧しいながらも、未来に明るい希望や夢が見えてきた、そんな昭和30年代後半だった。だからこそ、あの頃は、家族5人みんな幸せだったんだと、今ならわかる。
大晦日の絵日記を描いた3ヶ月後の昭和38年3月(多分)、父親の転勤のため、長野市から松本市へ引越しとなった。この写真は引越し日に撮影したものだ(と思う)。右から二人目が5歳の私。
長い歴史の中で、ほんの一瞬光が差した時代に生きていたのかもしれない。世界で戦争が続く、この令和の時代、今一番望むのは、平和で安全で、未来の夢を語れて、そして希望を持てる世の中だ。そういう世の中になって欲しい、いや、しなければ!
最後まで、下手な絵と昔話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
こちらは、小学校3年生(昭和41年)〜小学校4年生(昭和42年)の頃のお話です。