亡くなった母のことで思い出すのは、帰省した最終日の朝に見送ってくれる姿。手を振って佇む姿は、しだいに霞んで見えなくなる。
私が嫁いだ日に泣いたのは父だ。母はむしろ安堵の方が強かったのかな、と思っていた。
そんな母が、しばらくして
「やっぱり寂しくなったよ、居なくなって」
ポツリと言ったのが忘れられない。
結婚前の母
母は5人兄弟の末っ子。子どもみたいに可愛らしく、また、負けず嫌いな人だった。年の近い兄と常に競い合って育ったそうだ。
上の姉達が嫁ぎ、やがて兄の結婚が決まった時、母は焦った。
兄の嫁となる人が、自分の高校時代の同窓生だったからだ。彼女を同じ屋根の下で"義姉さん"と呼ばねばならないことが耐えられなかった。
当時「行き遅れ」のレッテルを貼る世間の眼はそんなに厳しかったのだろうか。
若き父と母。後ろは浅間山だろうか
父との結婚の理由を、望まれて嫁ぐ方が大切にしてもらえるだろうと思ったから、と語ったことがある。実際は、男ばかり6人兄弟で育った父に、随分手こずったと思われるが。。
私が小学生の頃、母は算数にこだわった。
「今、習っている所見せてごらん」の一声で終わりの見えない特訓が始まる。問題をミスするとひどく叱られ、延々と演習が繰り返される。
終業式の帰路もちょっと気が重い。通知表を見た母が、悪い所ばかり指摘して叱るからだ。
早生まれの私は、さぞ頼りなくて。。私自身より母の方が負けん気に突き動かされていたのではないか。
父親の転勤に伴い転校した先で、意外に学習内容が進んでいたので、親としては必死だったのかもしれない。
母が保管していた通知表。小学校時代は3校分、3種類。「理解はできているがもっと発言をしなさい」どこでもそう書かれている
嫌な思い出でしかなかったけれど、最近になって、もしかしたらここで落ちこぼれずに済んだのは母のスパルタのお陰も少しはあったのか、ふとそんな気もした。
後になって、「上手に子育てしているね、私は駄目だったよ」と、呟いていたのは、何か思うところがあったのだろうか。
私の結婚後は良き相談相手になってくれた。
晩年の母は、いつもニコニコ穏やかだった。母にとって究極に重大な心配事に襲われるまでは。。
その心配事は、母には、とても不幸だった。
父が買ったという雪下駄。晩年に譲ってもらったが、娘も私も大足で履けなかった💦
昔から手作業が好きで器用だった。セーターやワンピース、レース編みのカーディガン…etc。そのうち弟子入りして和裁を習得。検定を受けて呉服屋の注文をこなしていた。
ここまで本気になった訳はその頃の父の病だろうけれど、その後の母の人生に、大きなやり甲斐を得たといえる。
母が亡くなった時に、一度だけ父に聞いてみたことがある。
「お母さんは幸せだったと思う?」
幸せだったろう、と父は即答した。
66歳で亡くなった母の人生はどんなだったのか。私はあと数年で、その歳になる。
小学校の卒業文集『父母の言葉』母は「…これからは健康第一、他人様に迷惑をかけない、このふたつを守るように心がけて下さい」と書いている
母にはよく、ひとに迷惑をかけるな、他人の身になって考えなさい、と言われた。
しかし、相手の立場を考えてしまう癖は、少し損に思える時もある。
昔、人には、しっかりしてるね、などと言われたけれど、突っ走っちゃうくらいの人が羨ましかった…
でも、今なら母は言ってくれるかな
よく頑張ったよ、って。
受話器から響く母の声が、耳に鮮明に残っている。
その声の主を追いかけて、つかまえられたなら、
話したいことが一杯あるんだけどな…
小学1年時の絵とクラスの日記。私は「てつぼうで、ふんすいをしました。……おうちにかえってままにはなしました。おもしろかったです。ままはにこにこわらいました」と、母とのことを書いている