初めての「パリ」で見上げた凱旋門(1987年11月17日)
「パリオリンピック」がついに終わってしまった。さすがヴェルサイユ宮殿入口にピラミッドを建ててしまう「芸術の国」フランスだ。確かに行き過ぎもあったが、開会式の演出には独創性を感じた。また、オリンピック運営等で色々と残念な面もあったが、そんな中でも選手の皆さんは一生懸命闘った。懸命に頑張る姿に元気と勇気をもらいました。ありがとう!
(左)総合馬術団体で92年ぶりの銅メダル。奥に見えるのがヴェルサイユ宮殿。もっと試合をTVで流して欲しかった😢(読売新聞より)
(右)コンコルド広場で行われたスケートボード女子パークで開心那が2大会連続の銀メダル(朝日新聞より)
オリンピックのテレビ中継でパリの景色を目にするたびに、出張でパリに行った大昔(37年前)のことが目に浮かんだ。私にとってパリは、とても思い入れのある懐かしい場所なのだ。
初めてパリの地を踏んだのは、1987年(昭和62年)。パリ経由でスイスのジュネーブに海外出張(11月15日〜12月8日)した時である。
長期間なので、出張中は確か、妻とまだ10ヶ月の息子は、長野の妻の実家に帰省していた。
私にとって海外出張は初めての経験。一番下っ端だったし英語も自信が無かったので、ジュネーブ滞在中は、それこそ地獄にいるような気分で毎日を過ごした。
しかし、経由したパリでの自由時間は、仕事から離れて、まるで天国のようだった。その後のヨーロッパ出張でも、大抵パリ経由で計画を組むので、パリの訪問回数が一番多い。だから、パリは私には一番馴染みの深い街になった。
今となってはもう記憶が曖昧だが、初めての「パリ」の思い出・エピソードを、順不同になるが、以下の9つに分けて少し綴ってみたい。
❶出張予定とパリ宿泊先
❷初めてのルーヴル美術館
❸ノートルダム大聖堂のミサ
❹モンマルトルの丘と市内散歩
❺シャンゼリゼ界隈で、妻のお土産探し
❻パリメトロの切符売り
❼ヴェルサイユ宮殿バスツアー
❽晩秋のフォンテーヌブロー宮殿とバルビゾン
❾残っていた外貨
1987年当時のものではないが、2010年頃のガイドブックのマップに、パリの名所の位置がまとめて載っていてわかりやすかったので、参考に載せておきます。(❼と❽はこのマップのエリア外)
フランス徹底ガイドより
❶出張予定とパリ宿泊先
当時の出張予定表を見ると、ジュネーブで16泊、パリでは行き帰り合計6泊、実質的にはパリで4日間も自由時間があったことがわかる。ちなみに、その後の海外出張で、1都市でこんなに自由時間があったことは一回も無い。
パリの宿泊先は「オテル モンタボー(Hotel Mont Thabor)」。小さなホテルだが、チュイルリー公園のすぐ北側にあり、街歩きにはすごく便利な場所だった。
建物は今もそのままだが、別のホテル名が付いている。パリオリンピックでマラソン選手が通り抜けた「ヴァンドーム広場」まで300m、「ルーヴル美術館」まで約1kmだ。
ホテルの領収書が残っていた。
簡単な朝食付きで1泊490F。当時の為替レートはよく覚えていないが、仮に1F20円だと、9,800円になる。ちなみに朝食は、毎日トーストに卵料理(目玉焼きorスクランブルエッグ)と珈琲だった。
❷初めてのルーヴル美術館
パリに行ったら「ルーヴル美術館」に寄らないなんてあり得ないだろう。12月6日(日)私も、まだ行ったことのない先輩3人と一緒に、ホテルから歩いてすぐ近くのルーヴル美術館に出かけた。確か日曜日は無料ではなかったかな。
ルーヴル宮のペローの列柱。中央から人が並んでいるのがわかる。「ルーヴル美術館」にはここから入った(気がする)。
中央のメインエントランスから入った記憶が無いので、右側の四角の建物の赤い→から入場したはずだ。メイン・エントランスの場所にピラミッドが出来たのは、2年後の1989年だから、この時は工事中だったのかも(図は当時購入したガイドブックより)
フロア案内図(左から1階、2階、3階)。彫刻、絵画、工芸品、古代エジプト美術、古代オリエント美術、古代ギリシャ・ローマ美術などを展示(当時購入したガイドブックより)
あまりにも有名な「ルーヴル美術館」だが、下っ端の私は、ジュネーブでの仕事の準備で頭が一杯で、しかも自由時間があるなんて知らないから、ほとんど下調べなんかしておらず、どんなコレクションがあるのか把握していなかった。ところがいざ廻り始めたら、次から次に素晴らしい絵画や彫像や歴史遺産が現れるではないか。さらに美術館としての建物の造りのダイナミックさ、展示の仕方の素晴らしさに驚いてばかりだった。
しかし、先輩と一緒なので一人でじっくり鑑賞するわけにもいかず、その後の予定もあるので、泣く泣く美術館を後にした。いつかまた絶対来て、今度は目一杯見てやろうと決心し、帰ってから勉強するためにガイドブックも買った。再び訪問することが出来たのは、数年以上経ってからのことである。
フラッシュが使えずピンボケになるので、館内で撮った写真はわずかしかない。残っているのはこんな写真だ。
(左)モナ・リザ(レオナルド・ダ・ヴィンチ作)。小さいし近づけないので、残念ながらその素晴らしさを実感することは出来なかった。
(右)皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式(ジャック=ルイ・ダヴィッド作)。戴冠式が行われたのは、「ノートルダム大聖堂」だ。これは凄かった。幅10m、高さ6mほどの大作に圧倒された。大きすぎて写真には収まらない。近づいてじっくり鑑賞できるのも凄くいい。
(左)レカミエ夫人(ジャック=ルイ・ダヴィッド作)。彼女はナポレオンを袖にした、当時パリで最も美しい女性と云われたそうだ。
(右)ガブリエル・デストレとその妹(作者不詳)。フランス王アンリ4世の寵妃ガブリエル・デストレが懐妊したことを示唆している絵画だと言われている。
(左)ミロのヴィーナス。作者は紀元前130年頃に活動していた彫刻家、アンティオキアのアレクサンドロスと言われている。正面より後ろからの方が面白いと思って撮影。ヴィーナスさん、ごめんなさい💦
(右)サモトラケのニケ。サモトラケ島で発見された勝利の女神ニケの大理石彫刻。ご存知「ナイキ(Nike)」ブランド名の由来となっている。パリオリンピック閉会式では、床から徐々に現れてびっくり。確かに勝利の女神だもんね。
購入したガイドブック
❸ノートルダム大聖堂のミサ
⚫︎ノートルダム大聖堂に登る
ノートルダム大聖堂は、2019年4月15日に起きた火災被害により現在修復工事が行われている。パリオリンピック開会式でも、高所の工事現場を使った演出があった。今は外観しか見ることは出来ないが、34年前の12月5日(土)、ゴシック建築の最高傑作と言われているこの大聖堂を見学した。ヴェルサイユ宮殿と同じく、当時は、名前は聞いたことがある程度での見学だった。
(左)ノートルダム大聖堂前で。もう初冬なので、プライベートではずっとスキーウェアで過ごした。入口の3つのアーチは門になっている。中央が「最後の審判の門」、左側が「聖母マリアの門」、右側が「聖アンナの門」
(右)中央にある「最後の審判の門」
ノートルダム大聖堂内に入るのは無料。一歩その巨大な空間の中に足を踏み入れると、その荘厳な雰囲気と華麗なステンドグラスや宗教者の彫像に圧倒された。
ちなみに、奈良の東大寺大仏殿の高さ47mと比較しても、ノートルダム大聖堂は高さ91mで、2倍近くもある。しかも内部の天井高も32.5mと非常に高く、そこにステンドグラスが埋め込まれているのだ。圧倒されたとしか言いようがない。
この後、色々な国で大聖堂・教会に入ったが、やはり初めてのパリのノートルダム大聖堂の感動を超えることは無かった。
バラ窓のステンドグラス(左)は焼失を免れたらしい。でも大聖堂の再建にはどのくらいの時間がかかるのだろうか。。
大聖堂の上の展望台まで階段で行けると案内板に書いてあったので、有料ではあるが、折角なので登ることにした。狭い階段をぐるぐる登ると、パリを一望できる素晴らしい景色が待っていた。5年前の火事で焼け落ちた尖塔も写真に収まっている。
展望台の両側のガーゴイル(雨樋の機能を持つ怪物などをかたどった彫刻)が市内を見下ろす。左側にセーヌ川、右遠方にはエッフェル塔が見える。
(左)展望台から見える当時の尖塔。シテ島の端でセーヌ川が両側に分かれて流れているのがわかる。オリンピック開会式では、選手団を乗せたたくさんの船がここを通った。
(右)2019年4月15日に起きた火災で、尖塔等は焼けて崩れ落ちた。
⚫︎ノートルダム大聖堂でミサ
翌日の日曜日。「日曜日の夕方はミサがあるよ」という情報をどこかで仕入れたので、暗くなる前に、ノートルダム大聖堂で行われるミサを聴きに(見に)行った。もちろん(?)一人で。
既に結構混んでいて、後ろで立ったまま聴くしか出来なかったが、オルガンの響きと澄んだ聖歌を聴いていると、キリスト教徒ではないが、心が穏やかな気分になった。
その時に感じたことを今でも覚えている。キリスト教が全世界に広まったのはこのような「空間」と「音楽」があるからなんだろうと。そして、仏教も念仏だけではなく、心に響く音楽があればいいのになぁと。
当時とは勿論違うが、「パリ・ノートルダム大聖堂の鐘の音とミサ」という動画があったのでご覧ください。火事で消失する前の大聖堂の様子がよくわかります。
⚫︎Yくん(私のこと)行方不明事件
大聖堂から帰る頃にはもう真っ暗になっていて、内心ヒヤヒヤしながらホテルに帰った。地下鉄を使うほどではないので、ホテルまで歩いて帰ったのだが、旅行前に「ジプシーに囲まれて財布やカバンを盗られることがあるから気をつけなさい」と注意されていたので、少し怖かった。
ホテルに帰ってから、私の帰りを待っていた先輩たちに叱られた。「Yくん行方不明事件」となっていたらしく、「誰かに連絡してから出かけないとダメだ、一人の行動は危ない」と散々説教された。私が一番の若手だった頃のことだ。帰国してからは妻にも怒られた。。無事だったから良かったものの、確かに若気の至り。でも懐かしい思い出だ。
❹モンマルトルの丘と市内散歩
⚫︎モンマルトルの丘へ
11月17日のことだ。昼過ぎにヴェルサイユ宮殿から市内に戻った後、観光ガイドに載っていた「モンマルトルの丘」に先輩と二人で行ってみた。当時でも、モンマルトルは芸術家の集まる街、くらいは知っていたのではないかな。
ここでの一番の思い出は、ピガール通りを歩いていた時に、フランス人?の客引きから、変な関西弁で声を掛けられたことである。「兄さん、いいとこあるで〜。寄ってって〜」みたいな。しかし、元々治安が悪いエリアだと聞いていたので無視して歩いていたら、今度は同じく日本語で、怒鳴られた😨のだ。「このアホ〜!」だったか「ボケ〜!」だったか、どんな言葉だったかはもう覚えていないが、当然嫌な気分にはなった。だがやっぱり少し怖くなった二人は、客引きと目を合わせないようにして、早足でその場を去った(笑)
(左)モンマルトルの丘の頂にそびえるサクレ・クール寺院。ここからパリの街並みが良く見えた
(右)ムーラン・ド・ラ・ギャレット。ムーランとは風車小屋のことで、昔は踊ったり酒を飲んだりする庶民が集うダンスホールだった。あのルノワールの絵画の舞台だ。
テルトル広場で似顔絵を描く画家たち。さすが芸術家の街モンマルトルだ。
(左)蝋人形館(musée de cire)入口 (右)屋内の展示
この蝋人形館が何処にあったのか、よく覚えていない。探しても出てこないので廃館したのだろうか。
⚫︎市内中心部の名所を散策
さて、モンマルトルの丘を下り、地下鉄ピガール駅からシャルル・ド・ゴール・エトワール駅まで乗車。地上に出ると「エトワール凱旋門」が堂々と聳えていた。ここからシャンゼリゼ通りを東に下って市内散策を楽しんだ。
エトワール凱旋門の前で。この時は眺めただけだが、何年かして来た時には屋上展望台に登った。
(左)ヴァンドーム広場のオステルリッツの記念柱
(右)コンコルド広場にあるルクソールのオベリスク
(左)セーヌ川の橋の上で。コンシェルジュリーが見える。パリオリンピック開会式では、王妃マリー・アントワネットを想起させる女性が生首を持って歌う過激な演出が話題になった。
(右)道路の先にはオペラ座。残念ながら外から見ただけで中には入っていない。パリオリンピックのマラソン🏃♂️➡️では、この通りがコースに入っていた。
❺シャンゼリゼ界隈で、妻へのお土産探し
結婚3年目の夫としては、ヨーロッパに出張して、しかもあのパリに寄るのだから、何かパリのブランドモノを妻に買って帰って喜ばせたいと思うのは当然である。がしかし、女性モノにはとんと疎くて、何を買ったらいいのか全くわからない。
そこで、出発前に妻にどんなお土産が欲しいか聞いてみた。「無事に帰って来てくれるだけでいいから」と言っていたが、「じゃあ、バケツバッグをお願いします🙇」という要望を何とか聞き出した。ここでもう少し詳細を詰めておくべきであったのだが。
シャンゼリゼ界隈のお店。「ルイ・ヴィトン」と「セリーヌ」のお店は、赤い枠で囲ってある。
フランスでバッグと言ったら、何といっても1854年創業の「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」だろう。実は、当時私の知っていた唯一のブランドだ。今回のパリオリンピックでも、開会式の演出の中に、ヴィトンの大きな箱バッグを運ぶ演出が入っていたし、メダル授与式で使うトレイもヴィトンだった。
現在のルイ・ヴィトン シャンゼリゼ本店(4travelより)
だから、まず最初にルイ・ヴィトンのお店を探して入ってみた。しかし、そこはパリなのにパリにあらず。まるで銀座のお店のように、日本人観光客で溢れていた。日本人の店員さんも多い。しばらくその日本語が飛び交うお店で頑張って探そうとしたが、時間がかかりそうだし、そもそも値段が高すぎるのもあり、残念だが諦めた。
現在のセリーヌ フランソワ1er通り店(GoogleMapより)
その後色々なブランドのお店に入ったが、見つからず。最後に入ったのは、1945年創業というまだ若い「セリーヌ(CELINE)」というお店。どこかで聞いたことがあるかな程度だったが、お店で実際に見ると、上品で控えめの落ち着いたデザインがとても気に入った。
ところが真剣に探し始めたら、バッグのデザインが多すぎて困ってしまった。「そもそもバケツバッグってどんなバッグなんだ?」 頭の中には、円柱状のバケツ🪣のイメージがずっと浮かんでいる。四苦八苦しながら、何とか見つけ出したのがコレ。バケツに見えないこともない。
ショルダーベルトは2種類。インナーポーチも付いている。
意気揚々と日本に帰り、妻にお土産を渡したところ、喜んで受け取ってくれた。・・が、何年もしてから、妻の真実が明らかになった。
何と、妻にとって「バケツバッグ」とは、今でいうところの「トートバッグ」。友人間でもバケツバッグで通っていたらしい。だからバッグを受け取った時、(お願いしたのとはちょっと違うけど、折角買ってきてくれたので、そのことは言うまい)と考えたらしい。子供用品を入れて出掛けられる容量が欲しかったようだ。うーん、受け取った時の妻の笑顔の下にそんな思いがあったのか。。😅
今では我が家の笑い話である。
外出した際に、時々このバッグを使ってくれている。これは1992年8月、家族でお出かけした時の写真。左肩に掛けているのがこのバッグ。
(左)コンコルド広場からシャンゼリゼ通りを望む
(右)シャンゼリゼ通りのクリスマスイルミネーション
写真は両方とも、帰国日の早朝に撮影したもの
❻パリメトロの切符売り
地下鉄(メトロ)の切符を初めて買った時のことだ。一番初めにメトロに乗ったのは、フォンテーヌブロー宮殿に行くために、メトロでリヨン駅まで行った時だ。だから初めて買ったのは、ホテルに一番近い「チュイルリー駅」だったと思う。
(左)チュイルリー駅入口 (右)地下駅ホーム
地下の切符売り場で「チケットを1枚下さい」と英語で頼んだが、窓口の男性は黙っている。2度目も同じ。その時、先輩の話を思い出した。フランス人は自国語にプライドがあり、英語がわかったとしてもフランス語で話さないと返事してくれないことがあるとのこと。
そこでガイドブックにあった「アンティケット シルブプレ(Un ticket, s'il vous plaît.)」と話したら、にやっと笑ってすぐに切符を売ってくれたのだ。ちなみに10枚綴りチケットの場合は「アンカルネ シルブプレ(Un carnet, s'il vous plaît.)」。37年前のことだが、今はどうなんだろう。
当時の切符。(左)上と下がメトロ、真ん中が❽の話に出てくる、国鉄(SFNC)のリヨン駅からフォンテーヌブロー駅までの切符(28F)
(右)シャルル・ド・ゴール空港からパリ市内までのリムジンバス切符(35F)
❼ヴェルサイユ宮殿バスツァー
ヴェルサイユ宮殿は、パリの南西22kmにあり、パリオリンピックでは、広い敷地の中で「馬術競技🐎」が行われた。マラソン🏃♂️➡️でも、折り返し地点となっていたので、どこを通るのかテレビ中継を見ながら楽しみに待っていたら、宮殿には入らずに、あっという間に通り過ぎてしまった。残念。
ヴェルサイユ宮殿マップ(Amazing Tripより)
さて、パリ2日目の11月17日。この日は先輩と二人での自由行動となった。しかし二人ともパリは不案内である。観光案内所(チケット売場)で、手軽なバスツアーがないか探した。翌日はもうジュネーブに出発しなければならない。貴重な一日なので、これから出発して昼には帰って来れる「ヴェルサイユ宮殿バスツアー」が一番良さそうだったので申し込んだ。
観光バスでは、ちんぷんかんぷんのフランス語ガイドの説明を聞いている?と、30分くらいですぐに到着した。「⚫︎時に集合」と言われてバスを降りる際には、集合時間を何度も何度も確認した。確か見学時間は1時間半くらいしかなかったんじゃないかな。それしか時間が無いのかと思った記憶と、たくさんのバスが停まっている中で、果たして自分たちのバスまで辿り着けるだろうかと、何度も振り返って確認した記憶が残っている。
ヴェルサイユ宮殿といえば、当時の私のイメージは、ルイ16世とマリー・アントワネット。どんな豪華な宮殿で暮らしていたのか興味津々で向かうと、写真には収まらないほどの大きな宮殿が目の前に広がった。
ヴェルサイユ宮殿の正面。太陽王と言われたルイ14世の騎馬像(当時は知らずに通り過ぎていたけど💦)が迎えてくれた。3枚繋ぎ合わせてやっと全体がわかるくらいの広さだ。
「鏡の間」シャンデリアの美しい回廊。よく見えないが、天井画がすごい。
「王室礼拝堂」毎日礼拝していたらしい。すごい人だかりで写真を撮るのも難しかった。だからかピンボケばかり。
(左)王妃マリー・アントワネットとその子供たち
(右)ローマ皇帝に扮した青年ルイ14世の像
(左)宮殿の建物に一番近い池の前で
(右)大運河の手前で。このずっとずっと先に、オリンピックの馬術競技の特設会場が設置された。
ここにマリー・アントワネットが暮らしていたんだ、この廊下を歩き、この部屋で寛いでいたんだと想像しながら、わくわくしながら見学した。
とはいえ、あまりにも見学時間が短かすぎた。置いていかれたら大変という意識で見学していたのも、今から思えば勿体無い。それでも、行けただけでも感謝しなくては。
迷うと大変なことになるので、早々に切り上げてバスに戻ったら、何と一番。それなのに、みんなすぐに集まらない。あまり時間を守ってないのだ。そんなに焦ることはなかったか。。(笑)
❽晩秋のフォンテーヌブロー宮殿とバルビゾン村
⚫︎フォンテーヌブロー宮殿
パリから南東約70キロに、フランスで最も大きな宮殿「フォンテーヌブロー宮殿」がある。11月16日(月)に先輩たちと数人でそこに向かった。
(左)行きは、RATP(メトロ)でリヨン駅に向かい、 SNCF(国鉄)で1時間くらいかけてフォンテーヌブロー駅まで。バスを乗り継いでようやく宮殿に到着だ。
(右)バルビゾン村にはそこから少しバスに乗って行った記憶がある。
実はこの11月16日はパリ滞在の初日。フランスに来て初めての自由時間だった。何度もジュネーブやパリに来ているベテランの先輩から誘われて付いて行ったのだ。まだパリ市内観光もしていないのに、いきなりパリから70kmも離れた、しかもよく知らない宮殿の見学だ。だからなのか、フォンテーヌブロー宮殿の見学のことは、あまり覚えていない。新しいことばかりで、頭が飽和状態だったのかも(笑)
自分で撮った、この日の唯一の写真がこれだ。日本とは全然違う建物が珍しかったのだろうか。それにしても、カメラが趣味だった私が、この日1枚しか撮らなかった理由はよくわからない。
この日の唯一の写真。宮殿のどこか一角だと思う。
Wikipediaによると、フォンテーヌブロー宮殿は、16世紀のフランソワ一世から始まり、多くのフランス王の手により築城されてきた。建物は中庭を囲むように広がり、かつての王の狩猟場(フォンテーヌブローの森)跡を取り囲むように発展してきたとのことだ。
「フォンテーヌブロー宮殿」この写真のような宮殿の外観を眺めた記憶は確かにある(Trip Adviserより)
宮殿の内部は次の写真のようになっているらしい。全く見た覚えがないので、やはり外観だけ見て中には入らなかったのかもしれない。
宮殿の内部は1980年代より美術館として一般公開されている。
⚫︎画家たちの村「バルビゾン」
バルビゾン村は、フォンテーヌブロー宮殿からバスで15分くらいのところにあった。後で悔やむことになるが、帰りのバスの時刻を調べておけばよかった。。
この村には「ミレー」に代表される「バルビゾン派」と称される風景画家たちが集まっていたという歴史がある。だから、小さい村ではあるが、世界中から観光客が訪れているそうである。当時はそんなに観光客はいなかった気がする。
ミレーの古い家では「落穂拾い」や「晩鐘」を見た記憶がある。おーすごい!と思ったら複製画だったけど(笑)
37年前とは少し違っているかもしれないが、バルビゾン村はこんな感じだ。
バルビゾン村の風景(Jams Parisより)
今の「ミレー記念館」とその内部(Jams Parisより)
昼食を食べた場所は、バルビゾン村だったのか、フォンテーヌブロー宮殿付近だったのかはよく覚えていない。ただ、観光客らしい人は店内には全然いなくて、地元の人ばかりの小さなレストランだった。少し視線を感じながら、入口に近い窓際の席に座った。
私にとってはフランスで初めての外食。当然メニューはフランス語だ。ベテランの先輩の説明を聞きながら注文したはずだが、何を食べたのか覚えていない。ただ、昼間なのにワイン🍷を飲んだのだけは覚えている。フランスではランチ時間にテーブルワインを飲むのは普通なんだと聞いてびっくり。
あと、レストランで必須のフレーズをこの時に教えてもらった。それがこれだ。
「ラディション シルブプレ(L'addition s'il vous plait.)=お会計をお願いします」。確かにこの後、何度も使う機会があった。
⚫︎苦労した帰り道
帰りは行きとは逆に、まずバスでフォンテーヌブロー宮殿まで帰ろうとしたら、なんともうバスは無いことが判明。しまった!と思ったがもう遅い。タクシーがないかと探したが、全く走っていない。
途方に暮れて、バルビゾン村の一軒一軒を訪問して、帰る手段がないか聞いて回った。ところが英語が通じない。敢えて話さないではなく、本当に話せないのだ。仕方なく、フランス語会話集を手に、苦労して聞き回った。もちろん聞いて回ってくれたのは、最年少の私ではなく、外国出張に慣れた先輩。私は後ろに付いていただけ。
諦めかけていた時に、ある家の庭先にいた奥さんが、「じゃあ私が駅まで送りますよ。(頭の中の想像翻訳)」と車を出してくれたのだ。何と親切な人だ、と思ったら、どうも個人タクシーだったようで、最後はしっかり料金は取られた。
でも、これでやっと帰れる!とほっとしたし、駅まで送ってくれた車の中から見た、紅葉の「フォンテーヌブローの森」は、それこそ絵のように美しかった。
パリ市内の歴史的建造物の石の文化もフランスだが、どこまでも続く美しく大きな森や、田園がどこまでも広がっているのもフランス。フランスという国の大きさ・広さを、初めて実感した日だった。
それにしても、晩秋のフォンテーヌブローの森の写真を撮っていないのが本当に残念。ということで、ネットの中を探してみた。
フォンテーヌブローの森の紅葉は本当に美しかった。バルビゾン派が生まれた理由が少しわかった気がする。
❾残っていた外貨
今回昔のことを調べているうちに、外貨が残っていたことを思い出した。🇫🇷フランに関しては、100フラン札1枚と硬貨(20×5、5×1、2×3、1×3、1/2×4)が残っていて、合計166フラン。当時の為替レート1フラン20円として、3,320円になる。
1992年にもヨーロッパに出張しているので、その時に残った外貨だ。多分「硬貨は両替出来ないし、またいつか行った時に使えばいいさ」とそのまま残しておいたんだと思う。
しかし1999年にユーロに統一され、使う機会を失った🇫🇷フランは、本棚の奥の箱に保管されたまま忘れ去られた。
がしかし、もう両替は出来ないし、プレミアムが付くわけではないし、捨てるわけにもいかないし。。これどうしよう〜🤔
パリオリンピックが終わり、オリンピック旗は、4年後の「ロサンゼルス2028」に引き継がれた。閉会式ではトム・クルーズが高い天井から颯爽と登場し、オートバイと飛行機でオリンピック旗をアメリカまで持っていった。格好良かったなあ! それに、フランスの歌手イズーが最後に歌った「マイ・ウェイ」も、心にじーんと来て、涙を浮かべてしまった。
パリでは8月28日から「パリパラリンピック」が始まる。いつもガクンと放映時間が減るが、今回はどうだろうか。選手の皆さんには力を思う存分発揮して頑張ってほしい。私は遠く東京から応援しています。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。