武蔵野つれづれ草

リタイア後を楽しく!と始めた凸凹夫婦の面白ブログ。見たこと、感じたこと、残したいことをつづります。

🙋‍♂️「硫黄島」日本人捕虜の見たアメリカとは?


今から40年くらい前、私は仕事で硫黄島に出張したことがある。硫黄島と本土を衛星通信で結ぶためだ。滞在中、ちょうど島に来ていた遺骨収集団の一人が、夜中に突然訪ねてきた。


f:id:musashino007:20240513225741j:image

f:id:musashino007:20240513225747j:image

(左)米軍が星条旗を立てた摺鉢山 (右)摺鉢山から望む硫黄島の南海岸。遠くに見える白い建物の辺りが基地・滑走路だ。
硫黄島に出張した1985年2月に撮影)

その方は硫黄島東海岸で意識を失って捕虜となった元日本兵で、目が覚めたらハワイのベッドの上だったそうだ。硫黄島の生き残りは米兵にかなり恐れられていて、農作業中にふと立ち上がった捕虜が、びっくりした米兵に機関銃で撃たれて亡くなったこともあったという。
彼は遺骨収集団の一人として来島したのだが、「今日も一柱見つかった。何で自分は生き残ったんだ・・」と、涙を流しながら話す姿に、言葉を失った。

 

今回ご紹介したい本は、そんな硫黄島で捕虜となり、アメリカ本土まで連れていかれた元日本兵の、驚くべき真実の物語である。

 

著者は、主人公である元日本兵増山義邦氏の三男マイク・マスヤマ氏。父が家族だけに語ったアメリカでの捕虜生活のエピソードや、亡き父が残した詳細な手記、密かに持ち帰った新聞記事のスクラップなどをもとに、私たちには想像もできない硫黄島のあとの長い旅〉が明かされる。

 

f:id:musashino007:20240620174406j:image捕虜は背中にPW(Prisoner of War)と書かれた服を着させられた。

日本兵が見た「アメリカ」という国、そしてアメリカに渡った捕虜から見た「日本」という国について、主人公が独り言のように語る形で書かれていた。まるで目の前で話を聞いている感じである。

だから、この本の主人公の語る内容に心を揺さぶられると同時に、私が40年くらい前に話を聞いた旧日本兵の方と、この本の主人公の体験や感じ方にだいぶ違いがあることに驚いた。捕虜の人たち一人一人、考え方・感じ方がみんな違い、それが彼らのその後の運命をも変えていったのだろうと思う。

 

運命の分岐点

主人公には、いくつかの運命の分岐点があったと思う。重要だと思う分岐点を3つあげてみる。


◆玉砕した硫黄島で、なぜ死なずに捕虜になったのか


硫黄島での日本軍の戦いの悲惨さは言うまでもない。戦死者19,900人に対して生存者は約1,000人しかいない。


f:id:musashino007:20240514150902j:image

f:id:musashino007:20240514150904j:image

(左)壕の入口の錆びた大砲。崩れそうな壕の中にも案内してもらったが、土砂の中に飯ごうやヘルメット等が散乱していた。自衛隊の方は「ひょっとしたら、この下に・・」と話していた。
(右)海岸に沈むコンクリート船。遠くに摺鉢山が見える。
硫黄島に出張した1985年2月に撮影)

増山氏は、暗くて蒸し暑い穴ぐらの中で、アメーバ赤痢と栄養失調で、そのままなら必ず死ぬという状態だった。ところが、彼は死ぬなら外で、と這い出たのだ。そして助かった。

生死を分けた最大の分岐点である。

本では、硫黄島の激戦の状況と共に、主人公が穴倉でどのような思いだったのか、どうして外で死のうと思ったのか、彼の口で語られる。


◆ハワイの大勢の捕虜の中で、なぜ彼は重宝がられたのか


彼は、私が昔出会った元日本兵と同様に、硫黄島からまずハワイに連れていかれ、まだ病気が治っていないので病棟で療養となった。明日のことは誰にもわからない、銃殺されるのかもしれない、という中で、彼の捕虜生活を左右する出来事があった。


f:id:musashino007:20240514100244j:image

f:id:musashino007:20240514100259j:image

(左)捕虜となった時に撮られた増山氏の写真・指紋
(右)収容所の三段ベッド

夜、どうしても喉が渇いて熱い白湯を飲みたくなり、当番の看護兵に、戦時中禁止されていた英語で、必死にお願いした「ギブミーホットウォーター」

旧帝大(北大)卒の土木技術者である。だから多少の英語は知っていたが、いくら話しても最初は全く通じなかった。それなのに、英語が話せる捕虜がいると米兵に噂となり、彼の立場は少しずつ変わってゆく。

米兵と苦労して会話をしながら、少しずつ意思疎通が出来るようになると、敵だったはずの米兵の見方も変わった。決して鬼畜ではない。捕虜をきちんと扱い、しかも明るいのだ。

そうわかってきたことが、主人公の考え方、行動をさらに変えたのだと思う。

 


アメリカ本土の収容所では、なぜ、捕虜にもかかわらず、新聞のスクラップをすることができたのか


ハワイから今度は米国本土サンフランシスコ、そして本土を縦断して東海岸へ。

ハワイから全員揃って連れていかれたわけではない。何らかの選別がされたのだ。なぜ、彼は本土に連れて行かれたのだろうか?

その答えは捕虜である当事者にはわからない。しかし、米兵と英語でコミュニケーションが取れたことが理由の一つには違いない。

彼は収容所の中で通訳として働き、捕虜と米兵との繋ぎ役として重宝された。そして、新聞のスクラップまで出来るようになった。


f:id:musashino007:20240514095046j:image

f:id:musashino007:20240514095103j:image

(左)極秘に持ち帰ったスクラップブック
(右)新聞記事と共にびっしり書き込みがある

ゴミ箱に捨てられた新聞には、連日、B29大型爆撃機の大増産のニュースや、米軍のたくさんの戦勝記事が載っていた。新聞を拾って読むのを見て見ぬふりをしてもらい、辞書も借りて必死に読み、スクラップに自分の感じたことも書き込んだ。

新聞から知る「アメリカ」という国の大きさ、豊かさ、明るさ。そして、捕虜の自分に新聞を読ませ、スクラップするのさえ許してくれる、米国の懐の深さを感じた。本では、米軍士官がPWと書かれた捕虜服の代わりに、主人公に士官の服を着せて、内緒で映画まで見せてくれた、ハラハラエピソードも書かれている。

それに対して日本は、「本土決戦だ!」「一億総玉砕だ!」と叫んでいる。勝てるわけがないのに。国が、軍が、自分の家族を殺し国民を殺し、日本という国を滅ぼそうとしているのだ。

日本に帰還してから、米国で見聞きし感じたことを、家族にも話したであろう。それが彼とその家族の将来の生き方を変えたのは間違いない。

 

 

f:id:musashino007:20240514153818j:image硫黄島からの連絡が途絶えたことを伝えた、1945年3月21日の北海道新聞。「敵の7割3分強殺傷」という大嘘の大本営発表を、国民は本当に信じていたのだろうか・・

増山氏は戦後の1945年12月に日本に帰還することができたが、辿り着いた親戚の家で見たのは、自分の位牌と小石の入った骨箱だった。硫黄島の兵は全員戦死したことになっていた。

元々増山氏は、自分の弟と間違えられて硫黄島に連れていかれ、結果的に捕虜となり死なずに済んだ。
そして妻と子供たちは夫が召集されたため、それまで住んでいた長崎から妻の実家に戻らざるをえなくなり、結果的に原爆で死なずに済んだ。家族はみな生きて再会できたのである。

もし弟と間違えられずに召集されなかったら、仕事をしていた長崎で、家族全員原爆で死んでいたかもしれない。

生きるか死ぬかの運命の分岐点は、どこでどうやって決まるのか、不思議でならない。

 

この本を読むまで、日本兵の捕虜が何千名も米国本土まで送られていたなんて知らなかった。

硫黄島の戦闘について書かれた本や映画はたくさんあるが、捕虜となった日本兵から見た米軍や米国本土での捕虜生活の実態について読んだのは初めてである。この本を読むと当時の主人公の気持ちがありありと浮かび上がってくる。そして当時の日本という国の実態も。。

この本は、戦争の真実、日本と米国との違い、人生の分岐点、などを考えるきっかけを与えてくれる、読み応えのある本だった。



最後に、増山氏を頂点とするファミリーピラミッドを紹介しておこう。

4世代28名のうち、アメリカ留学6名、長期滞在者1名、アメリカ永住権保持者3名、アメリカ市民8名、アメリカ在住5世帯、多国籍ビジネス経験者5名、アメリカ陸軍士官1名。


アメリカとは全く縁のなかった増山家なのに、捕虜となった父が家族に伝えた『アメリカ』が、その後の家族の運命を大きく変えたのだ。

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。