春の大型連休を慌しく過ごした二人は、2週間後の1984年5月19日〜20日、またもや長野にて、結婚披露宴や新生活に向けての準備もしながらの週末の休日。さて、どのように過ごしたのでしょうか。
5月19日(土) 往生寺と市内散歩
🙋♂️「長野駅12時9分着」のメモがあるところからすると、今回は帰省した僕と🙋♀️は駅前で待ち合わせたみたいだね。
🙋♀️そう。時間的に、その後すぐにお昼だよね。
「イタリコ」スパゲッティ(トマト&ツナ)550円リンゴジュース300円のメモが残ってるよ。
🙋♂️全く思い出せなかったけど、今調べたらこの店は駅前の「Cーoneビル」の中にあったみたいだ。ここから往生寺まで歩いたとすると3㎞はあるね。
C-oneビルの2階にあった「イタリアンバル イタリコ」は、残念ながら2018年6月に閉店してしまった…
🙋♀️私、往生寺へ歩いたあたりの記憶が全然ないなぁ。 🙋♂️は覚えてる?
🙋♂️僕もほとんど覚えてないけど、田畑や農家のある道を往生寺に向かって歩きながら「いいね、こういう道歩くの」とか話した覚えがあるよ。
🙋♀️そっか〜^ ^それにしても、何で「往生寺」だったんだろう。なかなか渋いよね〜😄
信州善光寺の西、小高い山の中腹に往生寺がある。かるかや堂とも呼ばれている。(GoNAGANO長野県公式観光サイトより)
昔、善光寺参拝客は必ず往生寺にも登ったらしい。
🙋♀️往生寺まで登って、また市街へ戻って来たから往復6㎞、当時は若かったけど、実は次の日も結構遊んだから、休み明けの🙋♂️がちょっと心配だったんだよ。
🙋♂️確かにね😆 でも結婚までにやるべき事務的な事もちゃんと進めてたよね。僕は会社の上司や恩師に出席・挨拶の依頼したり、新居を申し込んだり。。
🙋♀️うん、お互いに披露宴の出席者をリストアップしておくのも宿題だったね。それを🙋♂️は帰省の折に両親と擦り合わせて…、そんなこんなを会った時に話し合うというかんじだった。
🙋♂️市街へ戻ってお茶に立ち寄ったお店、
「アラビアンナイト」でもきっとそうだったんだろうな。バナナミルクシェイク400円飲みながら…
🙋♀️うっまーー!ってね(笑) そうだ、月初めに結婚した先輩に教えてもらったお役立ち情報の話もしたね。例えば、秋の新婚旅行でも、服装は春夏のうちに準備しておくべき、とか…
元職場の先輩への🙋♀️電話直撃インタビューメモがびっしり!(当時の交換ノートより)
⑥洗剤や⑦日焼け止めなどのアドバイスは海外旅行未経験の自分には有り難かった。
🙋♂️うん、だから買物も重要だった。ところで、この「アラビアンナイト」だけどさ、廃業するまでにお店の形態がずいぶん変わっちゃったみたいなんだよね。
🙋♀️マッチを見るとCoffee & Tea。喫茶店だったんだよね?
当時のマッチ。Googleマップで検索すると、権堂アーケード街の北側に「アラビアンナイト」が出てくるが・・⁈
🙋♂️それがなにやらピンクっぽいお店になったみたい〜
🙋♀️は?ピンク?
(ふたり老眼鏡をかけて画像をマジマジ)
ほんとだ・・・・・😂
🙋♂️まっ、、僕らがピンクサロンに行った訳じゃないから〜。もし、当時そんなことあったら大変だったかな。もう嫁にやれん!とか大騒ぎになったりして〜ハッハッハ
Googleマップから。こちらも廃業しているようだ…
🙋♀️いや、いや、2人でピンクはないでしょ➖でも実際2人で街を歩いていて、知ってる人に会うこと多かったじゃない?この後、夕食に向かう途中「そごう」の前でもバッタリ私の元同僚の人達に会ったんだよね。
🙋♂️おお、ピンクサロンから出てきたとこじゃなくてよかったな〜!
🙋♀️まーだ言ってるし(笑笑)
🙋♂️お好み焼「風車」で夕食。マッチの地図を見ると、昭和通りから権堂へ抜ける道筋を歩いて見つけたんだね。
残念ながら、もうどこにもお店の痕跡はなかった…
🙋♀️たぶん「そごう(注)」で旅行に必要な春物のジャケットなんかを見てから行ったんだと思うな。
(注)1957年「丸光百貨店」→1983年「丸光そごう」→2000年7月倒産、跡地は信越放送へ売却→2006年9月「TOiGO SBC」オープン、今に至る。場所は国道19号線(昭和通り)と旧北国街道(長野中央通り)の交差点
🙋♂️メモによるとお好み焼とバター焼と焼きそばのセット1,500円を注文したんだね。そして2人でレモンサワー250円で乾杯だ〜
🙋♀️の㊙️ノートには、「新婚旅行でホテルの部屋に入る時には、抱きかかえて入るのが🙋♂️の夢」なんてのも書いてあるが・・
映画のワンシーンの様に…などという憧れが、後にとんでもない事件を引き起こすことになるとは! それはまだもう少し先のこと・・・
🙋♀️この日は9:30に迎えにきてもらって、茶臼山恐竜公園へ。この頃、まだできたばっかりだったんだね。それはそうと、子どもみたいにはしゃいでません?写真見ると😄
「茶臼山恐竜公園」は長野駅から車で約13km、約40分の場所にある。「川中島古戦場跡」がすぐ近くに。その昔、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の戦いで、武田信玄の本陣が置かれたのが茶臼山だ。
🙋♂️アスレチックもあったんだよね。まぁ、アドレナリンが出まくってるんだか、疲れを知らずによく遊んだな〜!植物園までは行かなかった、というより行けなかったか、疲れて〜💦
右側が恐竜公園、その左に冒険の森や自然植物園がある。
(左)トリケラトプスの「真実の口」に手を入れる🙋♀️
(右)アンキロサウルスを手なずけてはしゃぐ🙋♂️
(左)身軽さをやたらアピールの🙋♂️
(右)いつもバカチョン持参の🙋♀️
🙋♀️今回のお弁当は🙋♂️のお母さんとお義姉さんが作ってくれて、ほんとに有り難かった♡
🙋♂️帰りは兄の車を返しがてら一緒に僕の実家に寄ったんだね。しかしなんだ、今回も食べてるところの写真が誰かさんに却下されたな…
🙋♀️あっ、そういえばさ〜、ノートを読んでいると、このころ、電話で🙋♂️がよく私があげたクッションの話をしてるんだよね。そのクッションってなんだっけな〜って色々振り返ったら、わかったんだよ〜❣️
🙋♂️なんかわざとらしい話題転換〰️けどまぁいいや。そういやクッション、あった気もするけど…
🙋♀️4月のメモで見過ごしてたけど、結納の前日に渡していたみたい。2〜3月は急な退職で忙しくて作るの遅れたんだね。写真残ってるか探してみたら、新婚時代のアルバムにあったよ!
🙋♂️あ〜サントリーペンギン!うん、これ、これ!あった、あった❗️懐かしいな〜〜!これ貰ったの結納の前日だったのかー(しみじみ)
確か裏にはネームが入っている。残念ながらもうこの実物はない。
🙋♂️独身寮の部屋の見取り図。ベッドの隣に貰ったクッションが描かれている。(交換ノートより)
🙋♀️あっ、交換ノートに誤字発見!
🙋♂️あぁーっ!ほんとだ、恥ずかしい〜😱 でも修正はいいや。歴史は変えてはいけないのだ(笑)
忙しくも元気いっぱいに遊んだ週末でした。
さて、今まで🙋♂️が2週間おきに長野に帰省して会っていた2人でしたが、ついに6月2日🙋♀️が東京に遊びに来ることになりました。
次回「東京ディズニーランド編」をどうぞお楽しみに!
往生寺(長野市)とは?
往生寺(おうじょうじ)は、長野県長野市にある浄土宗の寺院で、善光寺の奥の院にあたる。
長野市の眺望が素晴らしい。
親子の情愛と修行への真摯な心の間で苦悩した、刈萱(かるかや)上人(父)と石堂丸(子)の伝説が残る寺だ。貴重な絵解き(縁起の絵を見せながら住職が独特の口調で行う説教法話)が伝承され、刈萱上人一代記伝を聴くことができる。
境内の鐘は、童謡『夕焼け小焼け』の作曲者である長野市出身の草川信が歌のモデルとしたと言われていて、歌碑も立っている。
『夕焼け小焼け(中村雨紅作詞、草川信作曲)』の歌碑と鐘(まいぷれ長野「コミュチカ」より)
実は、長野市平柴(往生寺の南5km)の阿弥陀寺にも「夕焼け小焼け」の歌碑がある。戦後、どちらが「山のお寺」のモデルかで両寺が争い、話題になったことがあったそうだ。
とすると、作詞家の方の「山のお寺の鐘」は何処で鳴っていたのだろうか。Wikipediaによれば、この歌の情景は、中村雨紅の故郷である東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市)のものなのだという。八王子に歌碑があるが、何とこちらでも本家争いがあるようだ。聴く人の頭の中に、それぞれの山の鐘が鳴っていれば良いのではないかと思うが。。
あと不思議なことがある。往生寺と全く同じ伝説の残るお寺が、長野市中心街にもう一つあるのだ。「かるかや山 西光寺」である。往生寺でも西光寺でも、相手のことが全く触れられていないので、2つのお寺の関係が全く分からない。ここにも本家争いがあるのだろうか。今度行く機会があったら聞いてみよう。
茶臼山恐竜公園とは?
嬉しいことに、今も健在だ。長野市制施行80周年記念事業として、地すべり跡地に作られたもので、1977年7月に茶臼山自然植物園が開園、3年後の1980年7月には、自然植物園内に茶臼山恐竜公園が開園した。私たちが遊びに行った時は、まだ出来立てほやほやだったのだ。1983年8月には茶臼山動物園も開園し、この辺り一体がレジャーランドになっている。
恐竜公園には、ペルム紀(約2.5億年前)3体、三畳紀(約2億年前)2体、ジュラ紀(約1.5億年前)11体、白亜紀(約1億年前)9体の合計25体が実物大で展示されている。
さて、地すべり跡地に作られたと書いたが、『茶臼山地滑り』は全国的にも非常に有名な地滑りだ。茶臼山自然史館ホームページにはこう書いてある。
茶臼山地すべりは、茶臼山旧南峰で発生し、長期にわたって滑動して大きな被害を出しました。大規模な「第三紀層地すべり」の代表例として全国的に知られています。この地すべりの規模は、長さ2,000m、幅130~430m、滑動土砂量900万立方メートルという大規模なものでした。地すべりを起こした地層は第三紀の砂岩泥岩層(論地層)で、下位の裾花凝灰岩との間にある亜炭層がすべり面になったとみられています。
地すべりの発生は、1847年(弘化4年)の善光寺地震によって地下に割れ目が生じたことが原因と考えられます。1884年(明治17年)に南峰頂上に地割れが生じ、その後山体の東側が徐々に沈みはじめ、山腹の各所にも亀裂が生じました。1930年(昭和5年)になると、梅雨期の長雨を契機に地すべりが活発化し、地すべり地上部全体で移動が始まりました。その後長いあいだ地すべりが続き、地すべりの先端は2km下の山麓まで達しましたが、1965年(昭和40年)から深井戸や排水トンネルの掘削などの強力な排水工事が実施されたことにより、次第に安定化しました。地すべりがおさまった後、広大な地すべりの跡地は恐竜公園や自然植物園として整備され、市民の憩いの場となっています。
何と江戸時代から100年以上にわたって、何度も地滑りが起きたのを、何とか安定化させたのだ。自然植物園を作る際には、植物への水やりによって地滑りが再度活性化しないか、とかなり苦労したそうである。
願わくば、江戸時代の「善光寺地震(推定マグニチュード7.4)のような大地震が再び起こって地滑りが再発することなく、公園で遊ぶ子供たちの笑い声が、未来までずっと続いて欲しいものだ。
〈マッチの玉手箱〉も11回まで来ました。よろしかったら過去の記事もご覧ください。表題の下にあるカテゴリー【★特集「マッチの玉手箱」】をクリックすると見ることが出来ます。