武蔵野つれづれ草

リタイア後を楽しく!と始めた凸凹夫婦の面白ブログ。見たこと、感じたこと、残したいことをつづります。

🙋‍♂️小学3年生の思い出

 

昭和41年(1966年)の春、父の転勤に伴い、私たち一家は3年間暮らした松本から長野の我が家(知人に貸していた)に戻ってきた。

そして親の転勤には付きものの、子供たちの人生の一大事「転校」。4月1日、私は長野市立M小学校の3年2組に転入。兄は6年生、姉は中学2年生となった。

日本の総人口が1億人を突破し、ビートルズ日本武道館コンサートがあった昭和41年(1966年)のことである。

松本での3年間の思い出は、昔の記事↓をご覧ください。musashino007.hatenablog.com

musashino007.hatenablog.com

 

どういうわけか、小学3〜4年生頃の写真が全然見つからないのだが、文集や日記等は残っている。親が捨てずに残しておいてくれたので、これが当時の唯一の記憶の拠り所となっている。

M小学校では、毎年の年度末に、生徒一人一人に自ら1年間の日記や作文をまとめさせて、学校で綴じて文集にしてくれた。だから私には、小学3年生から6年生までの4冊の文集が手元にある。 今思えば本当にありがたいことだ。

f:id:musashino007:20241121195916j:image1年間の作文などをまとめた小学3年生の文集「三年の思い出  小川」

f:id:musashino007:20241115221538j:image文集の目次は自分で作る

この文集や日記をつらつら読んでいると、写真はなくとも、ぼんやりと当時のシーンが浮かんでくる。そんな小学3年生の思い出を、少しだけ綴ってみたい。

 

初めての登校日(4月1日)

転入したこの日のことが、文集の中の作文に残されている。校門を入って右側に音楽室。そこから校庭側にずっと廊下を歩いて行くと、3年生の教室があった。生徒数が多くなり過ぎて、暫くは "夏暑く冬寒い" のプレハブ校舎だった頃の話だ。
(もちろん冬はストーブ、夏は窓を開けるだけ…)

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f:id:musashino007:20241121130805j:image方眼紙に書かれた手書きの作文を、修正せずにそのまま文字にした。おかしな表現もあって恥ずかしいが、まだ3年生の作文なので致し方ない

文集の最後に、この年の3年2組の年間行事が綴じ込まれていた。これは貴重な情報である。この年の転校生は、私を含めて3人だったとか、どこに遠足に行ったとかがわかり、本当にありがたい。

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これを書いたのは担任のT先生。社会科の優しい先生だった。この先生だったから、私はこのクラスに馴染めたのかもしれない。T先生にはこの18年後、結婚披露宴に来賓として来ていただくことになるのである。

 

泣き虫の男の子(多分4月)

転校初日かそのすぐ後、プレハブの教室で掃除をしていた時に、女の子に泣かされて、鼻血を出した。いや違うかな。鼻血を出したから女の子になんか言われて泣いたのかもしれない。よく覚えてはいないが、その頃は、引っ込み思案の泣き虫の情けない男の子だった。

クラス替えのない3年生なので、当然みんな仲良しだ。そんな中で転校生というのは最初はつらいが、みんな優しくていじめられたことなんて一度もない。しばらくしたらもう、普通の3年2組の仲間になっていた。

血液検査の謎(6月6日)

この年だったのか実は定かではない。ただ毎年血液検査するわけはないので、多分この年のことだったと思う。多分、母にとっては大変焦ったであろう事件?があった。

血液検査結果を持って帰宅した時のことだ。
母に「僕の血液型★型だって」と伝えたら、母の顔が真っ青(多分そうだったような…)になった。

「そんなことあるわけない。絶対間違いだよ」
「だってそう書いてあるよ」
「いや、そんなことあるはずがない。すぐにお医者さんに行くよ!」
と言って、かかりつけのお医者さんのところに連れて行かれた。何が何だかわからないまま、医院で血液検査だ。
検査が終わってしばらく待っていたら、お医者さんは「⚫︎型ですよ〜」

ほっとした顔の母。「時々あるんですよ。お子さんの血液のように "分かりづらいタイプ" が」
我が家の平和が保たれた日である。

当時は血液型の仕組みなんて何も知らなかったから、ぼーっと聞きながら思っていた。
「★型の方がカッコいいのになあ」

その後、友達との間で血液型が話題になって「お前の血液型は何型?」と聞かれた時の定例パターンはこうなった。

「僕は★型」
「ふーん」
「・・だったけど、暫くしたら⚫︎型に変わった」
「えーっ😱」

そうやってよく楽しんだもんだ😁

秋の遠足「大峰城」(10月13日)

f:id:musashino007:20241201180202j:image長野市を囲む北側〜西側の山が、遠足やスキー場の行き先。地附山の北側斜面がスキー場だったが、今はもう無い

春の遠足は阿弥陀堂、秋の遠足は「大峰城」、そして冬のスキー教室は「地附山」スキー場である。ここでは、秋の遠足の作文の中にあったエピソードを紹介したい。

大峰城というのは、武田氏と上杉氏の「川中島の戦い」でも重要な拠点だったお城である。私が遠足に行った頃は、鉄筋コンクリート製の模擬天守があり、博物館となっていた。今回調べてみたら、何と2007年に「閉館」していた。1985年の隣の地附山の地すべり災害を契機に、来場者数が激減したようだ。非常に残念だ。


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(左)城山公園付近から眺める大峰城
(右)大峰城天守(閉館):どちらもWikipediaより

さて、善光寺の北側の大峰山にあるこの大峰城への道は、結構きつい。まず、城山を登る。

「・・はじめに、じょう山をのぼりました。ともだちは、「あつい、あついなあ」といって、あるいていきました。ほんとに、きょうは、あつい日です。・・」
「・・大みねじょうについて、ぼくはほっとしました。あとで、大みねじょうの中をみせてくれました。そこはおしろの気がしなくて、はくぶつかんみたいでした。みてみると、こめつぶに字がかいてあるので、びっくりしました。・・」

米粒の表面に書かれた細かな字に、とてもびっくりしたことは、よく覚えている。どうやって書くんだろうと不思議だった。

遠足の作文の中で面白かったのは、大峰城を出てから家に帰るまでのところだ。自分のことながら笑ってしまった。

「・・ぼくは、おみやげに小さいマツ小さい岩をひろってリックにしまいました。・・いわが一つしかなかったので、もういくつもひろった。いい石がみつかりました。見るとほんとにいしらしく、ごつごつしていて、いい岩だと思いました。ぼくが手をにぎったくらいのいわなので、もてました。また、おやゆびくらいのいいいわがあったので、どんどんひろいました。」
「・・マツいわをつっこんだので、おもくてしようがありません。がまんをして、さかをおりていっても少しおくれました。がまんをしていてもどうしてもおくれるけど、やっぱりがまんして、また、いいいわをひろいました。・・とちゅうで、ものみいわをみました。・・そこにはいいいわがあったので、あるきながらひろいました。でもさかなので、うまくひろえませんでした。でも、ぼくはいっしょうけんめいひろったのでつかれてしまいました。・・」
「・・もういえへきたときは、くたくたでした。・・きょうは、ほんとにつかれたけど、うれしいたのしいえんそくで、また二かいぐらいいってあそびたいとおもいます。」

「おいおい、いくら何でも拾いすぎだろ〜❗️」と笑ってしまった。「何でそんなに「岩•石」を拾うの?」と、58年前の自分に問うてみたい(笑)

岩石と一緒に小さい「マツ」もお土産にしたようだ。もちろん「松🌲の幼木」である。

「おにいさんもマツをもってきました。うえました。でもよくのびないと思いますが、水をやったりして、そだてていきたいと思います。」

兄弟そろって松の幼木を山から持ってきてしまって、果たしていいのだろうか? 先生は何も言わなかったのだろうか? 疑問は尽きない。

劇団たんぽぽ(12月6日)

体育館の冷たい床に座って劇を見たことと、観劇なんて初めてだから、紙芝居よりずっと面白かったことは覚えている。だが、当日の演題「三つの難題」の中身は、残念ながら全く思い出せない。

劇団のホームページによると、元々この劇団は、主宰者の小百合葉子が疎開していた長野県篠ノ井町で信濃芸術座として1945年に結成されたそうだ。しかし翌年12月には改組して、児童劇団たんぽぽが生まれた。1953年には主宰者の小百合葉子の故郷、静岡県浜松市に拠点を移し、現在も全国で活動しているようである。


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小百合葉子は明治34年生まれの女優。劇団たんぽぽを立ち上げた時は45歳になっていた。(右)は最近の作品「100万回生きたねこ」の一場面

過去の作品リストの中に、1949年初演の「三つの難題(大盗賊)作:菅井健」が見つかった。多分私が見たのはこの作品だ。しかし、どう調べてみても、どんなあらすじだったのかわからない。残念😢

f:id:musashino007:20241201104502j:image劇団たんぽぽの主な上映作品の中にも「三つの難題」が載っていた(赤い→)。1950年代に主に上演されたようだ

 

読書感想文

実は昨年、小学3〜4年の「図書カード」を題材にした記事をブログにアップしている。改めてその時の図書カードを見ると、文集に載っていた読書感想文の「ビルマの竪琴」は転校したばかりの4月30日に、「宇宙旅行」は翌年の3月4日に借りたことが分かった。それだけで、ふーん、そうだったのかぁとリアル感が蘇る。

「小学3〜4年の「図書カード」の記事にも書いたが、「当時読んだ本のジャンルが、今好きなジャンルとそれほど変わっていない」のが、ほんと不思議である。

その時の記事はコレです↓musashino007.hatenablog.com

こうやって文集を読みながら色々と調べたりして、58年前の様子が段々と浮かび上がってくるのって、何だか自分自身を探偵してるようで、結構ワクワクする。当時大好きだった米国ドラマ「タイムトンネル」を使って1966年に戻って、自分を眺めているような、そんな気分である。

 

昭和41年、どんな年だった?

今回思い出を綴ろうと思った、私が小3だったこの昭和41年(1966年)とは、一体どんな年だったんだろう。東京オリンピックが終わって2年後だ。自分ではよく覚えていないので、Wikipediaを借りて、出来事と音楽でまとめてみた。

⚫︎昭和41年の出来事
下記の出来事の中で、この年に生で見た(理解していた)のは、多分ウルトラQウルトラマン。あと、銭形平次笑点くらいだろうか。

1/2 ウルトラQ放送開始
2/4 全日空羽田沖墜落事故
3/31 日本総人口が1億人突破
5/4 銭形平次放送開始
5/15 笑点放送開始
6/22 三里塚闘争始まる
6/30 ビートルズ武道館コンサート(3日間)
6/30 袴田事件発生
7/17 ウルトラマン放送開始
10/28 週刊プレイボーイ創刊
12/27 衆議院解散(黒い霧事件


⚫︎昭和41年の邦楽ヒット曲
この年のヒット曲は、何と全部知っていた。ただし、この年に生で聴いたのか、その後の「紅白歌合戦」や「懐かしのメロディ」で聴いたのかは、もうわからない。どちらにせよ、ザ・昭和という感じで、自分には心に沁みる懐かしい歌ばかりである。

(クリックするとYouTubeに飛びます)
1. いつまでもいつまでも(ザ・サベージ)
2. 夕陽が泣いている(ザ・スパイダース)
3. 若者たち(ザ・ブロードサイド・フォー)
4. 想い出の渚(ザ・ワイルドワンズ)
5. バラが咲いた(マイク眞木)
6. 逢いたくて逢いたくて(園まり)
7. 柳ヶ瀬ブルース(美川憲一)
8. 星影のワルツ(千昌夫)
9. 唐獅子牡丹(高倉健)
10. 星のフラメンコ(西郷輝彦)
11. 霧の摩周湖(布施明)
12. いっぽんどっこの唄(水前寺清子)
13. 今日の日はさようなら(森山良子)
14. いい湯だな(デューク・エイセス)
15. 若いってすばらしい(槇みちる)

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました🙇‍♂️