「庄内」地方って?
今回の「山形の旅」で、山形タウンの次に選んだ行き先は「庄内(鶴岡・酒田)」だ。何故か。
その理由は、🙋♀️(妻)も書いているが、鶴岡は、藤沢周平の小説や映画に出てくる「海坂藩」の舞台だから。また、酒田は「最上川舟運」や「北前船」が往来する、江戸時代における経済・文化の重要な交流拠点だった。
そんな鶴岡と酒田の街を歩いてみたい。歴史を感じてみたい。だからここ庄内地方を選んだ。
ちなみに、庄内地方とはどんなところか、地図で見てみよう。
これが庄内エリアマップだ。宿のある湯野浜温泉は赤の枠で、この日に行った❶鶴岡公園・庄内藩校致道館、❷庄内観光物産館、❸山居倉庫・本間家旧本邸は青い枠で囲んである
庄内地域は、東に月山、湯殿山、羽黒山からなる山岳修験の聖地・出羽三山、南にブナ原生林の地・朝日連峰の山々に抱かれ、北に出羽富士と称される鳥海山、西は日本海に面する、四季折々の山の幸、海の幸に恵まれた自然豊かな地域で、豊かな食文化を形成しています。
そう。庄内地方は豊かな自然に囲まれ、海の幸、山の幸にも恵まれた素晴らしい場所なのだ。歴史を感じるだけでなく、時間があれば、色々な山にも修験の地にも行きたいし、食べ歩きもしたい。でもそれは1日ではとても無理だな。
まぁ、欲張らずに歴史散歩しよう p(^_^)q
「鶴ヶ岡城址公園」を歩く
というわけで、「山形の旅」3日目の今日は、昨日見学した旧風間家住宅「丙申堂」に引き続き、城下町鶴岡の散策である。まずは、市中心部にある「鶴岡公園(鶴ヶ岡城址公園)」からスタートだ。
「鶴岡公園周辺案内図」より。右側が北
「鶴ヶ岡城のうつりかわり」現在の地図と比較すると、その違いがよくわかる。外堀は上半分だけ残っている感じだ。上方が北
鶴岡公園は、かつて庄内藩・酒井家歴代藩主の居城として約250年も栄えた「鶴ヶ岡城」跡に広がる城址公園である。当時のお城は、三重に堀と土盛りをめぐらした平城だったらしい。だが、明治維新後の明治8年(1875年)にお城は取り壊され、本丸と二の丸が、案内図にあるような今の公園になった。お城の名残りを感じられるのはお堀や石垣だけである。
お堀の向こうの疎林広場で、園児たちが遊んでいた。ここは絶好のお散歩エリアだね!
この鶴ヶ丘城址公園は、県内随一の桜🌸の名所で、「日本さくら名所百選」にも選ばれている。園内には約710本の桜があり、毎年4月上旬に見ごろをむかえ、大勢の花見客でにぎわうそうだ
以前テレビで、藤沢周平原作の時代劇映画『花のあと』(2010年に公開)を見たことがある。
オープニングで、武家の娘・以登(北川景子主演)が下級武士・江口孫四郎(宮尾俊太郎)と出会うシーンのロケが、この鶴岡公園で行われた。700本以上もある桜の満開の時期に撮影されたようで、映画でも本当に美しかった。
海坂藩では毎年花見が催されていた。そこで以登は孫四郎に声をかけられる
女剣士として知られていた以登は、藩内一の剣士・孫四郎と竹刀での手合わせをしながら、自分の恋心に気づく
許嫁の片桐才助(甲本雅裕)は冴えない男のように見えて、実は優しくて頭の切れるすごい男だった。50年後、桜満開の中での夫婦の幸せな様子にジーンと来た。もちろんこの場面も鶴岡公園の桜である
この鶴岡公園で、いつか満開の桜の中を歩いてみたいものだが、さすがにもう無理かな。今度また『花のあと』を観ることにするか。
お堀を少し歩いていると、前方に赤い尖塔屋根の白い素敵な建物が見えてきた。「大寶館」である。この場所にはかつて「本丸中門」があった。
(案内板より抜粋)建物はオランダバロック風を思わせる窓とルネッサンス風のドームをのせた様式で、赤い尖塔屋根と白亜の殿堂として大正建築の優美さが内部を含めて完全に原形を留めていることから、昭和56年1月、市の有形文化財に指定された。
「大寶館(タイホウカン)」は、大正天皇の即位を記念して、1915年(大正4年)11月に創建された。当時は、物産陳列場、図書館等として使用されたそうだが、今現在は、郷土ゆかりの人物資料館である。
ざっと中を見学してから、公園の中心に進むと、鳥居を3つも持つ「荘内神社」があった。ここは昔「本丸」があった場所だ。
明治10年(1877年)創建された
また園児たちが、神社の境内をお散歩中
何故、本丸趾に「神社⛩️」なんだろう。
天下分け目の「関ヶ原の戦い」まで歴史をさかのぼってみる。最上義光氏は東軍(徳川)方についた功績により、山形県と秋田県南部を併せ、57万石の大大名となった。しかし約20年後に改易となり、旧最上氏領のうち、庄内には、酒井忠勝(酒井家第3代)が入り、幕末まで藩政を敷くことになった。
(注)酒井忠勝は庄内に入る前の3年間、信濃松代藩(10万石)の藩主であった。私たち夫婦の故郷と縁があったなんて☺️
この「酒井の殿様」が、歴代、領民を第一に考えた藩政を行ったため、領民から敬われ慕われたのだそうだ。だから、明治に殿様という制度が無くなりお城が取り壊された際にも、鶴岡城本丸趾に、領民たちの心の拠り所として荘内神社が創建されたという。
これって、すごいことだと思う。米沢藩でも藩主上杉鷹山が疲弊しきった藩財政の立て直しを進め、"名君"と尊敬を集めたのは有名な話だ。東北には名藩主が多いのかもしれない。今の日本にはいないけど…😮💨
庄内藩校「旧致道館」
実はこの後に向かった『庄内藩校「旧致道館」』は、この酒井家9代藩主「酒井忠徳」が創設した藩校である。 (注)忠徳は"ただのり"ではなく"ただあり"
致道館が創設されたのは文化2年(1805年)。赤い部分だけが今残っている。およそ70年間、徂徠学を基本に、庄内武士道の根源を培い、多くの人材を輩出した
表御門。藩主がお成りの時に使われた
孔子と顔淵(孔子の弟子)の聖画を祀る「聖廟」。正面に見えるのが「孔子聖像」。毎年2月と8月に儒学の祖である孔子を祭る釈奠(セキテン)が行われた場所である。右の孔子の絵は、全て論語の文字で描いているのが面白い
ここが、致道館の講堂正面。生徒が一堂に会して講義を受けたところである。
「天性の能力、自主性を重んじた教育」。致道館の教育方針だ
致道館の中の展示物を見ていて、旧庄内藩の教育の考え方と、トップ自らが教育改革を推進する姿に、大いに感動した。今の政治家や文科省の役人、教育関係者に来てもらって勉強してもらいたいくらい。
9代藩主酒井忠徳は「致道館」の開校にあたって、先生方に対して、その目的・方針・方法について、5通の「被仰出書」を与えた。トップがここまで考えて教育改革を進めるなんてすごい‼️
まず、学制である。
学力によって5段階(今でいえば、小・中・高・大・院にあたる)に分かれ、年1〜4回の学業検閲に合格すれば、年齢や修学年数に関係なく順次進級した。数えで10歳で入学し、生徒数は350名くらいに達したそうだ。
句読所(小学校相当)には担任の教師が付くが、終日詰(中学校相当)以上は、自学自習と会業と呼ばれる小集団討議が中心だった。
会業は助教を会頭とし、課題と期日を決めて研修の成果を個人ごとに発表し、互いに討論して疑問を明らかにしながら理解を深めようとする学習方法である。
これ、すごく理想的だと思いませんか?「自学自習」と「小集団討議」。一方的に黒板に書いて講義をするのではなく、個々人が学んで発表して討論することによって理解を深める学習。まるで米国ハーバード大学等での授業を見ているようだ。
次に学風。教育に対する考え方である。
(右)致道館は、論語の一節「君子学ンデ以テ其ノ道ヲ致ス」から名づけられた
致道館教育の特色は「天性重視・個性伸長」と「自学自習」「会業の重視」にある。
生徒一人ひとりの生まれつきの個性に応じてその才能を伸ばすことを基本にしながら、知識を詰め込むことではなく、自ら考え学ぶ意識を高めることを重んじた。これは、全て、荻生徂徠の「徂徠学」の思想に基づくものだそうだ。
「徂徠学」の考え方は今の庄内地方に「庄内学」と称して生き続けているというが、そうならば頼もしい。
今の日本の教育制度、というより教育方針・方法のままでは、自ら考え自ら学び、積極的に他人と議論できるような人材は絶対育たないと思う。政官トップと教育関係者には、本気で考えて欲しい。
(左)当時の致道館の絵 (右)講堂の左側の建物は今は無いが、間取りだけ平面的に表示されていた
(左)もう倒れそうな老木と、(右)石畳の道
ここを致道館の生徒は友と一緒に歩いていたのだろうか。藤沢周平の映画のシーンが浮かんできた。
さて、もう11時を過ぎた。そろそろ次の目的地「酒田」に向かわねば。
(続く)
今回の山形旅行の過去記事をピックアップしました。よろしかったらどうぞご覧ください😊